定年後の読書ノートより
カラマーゾフの兄弟、第1篇、ドストエフスキー著、米川正夫訳、河出書房
これから約1月をかけて、「カラマーゾフの兄弟」を読む。最近、2、3の人間論に接し、人間を知ろうとすれば、文学に教えを受けねばならないと悟った。自分もすでに63才になった。人生も幾つかの経験を経て、人間が見えるようになって来たと思っている。もう教養主義の立場から、「カラマーゾフの兄弟」をひも解く年齢は過ぎている。生きるという激しいものを胸に秘し、この小説にぶつかっていきたい。

先ず先入観として、ドストエフスキーに持っている小生のイメージとは。幸福論を展開する際に、我々は幾つかの例外事例を除去して考える。例えば他人の不幸をあからさまに喜こぶ人間の幸福感は、異常として幸福論の検討対象から外す。しかしドストエフスキーは、この例外事例にこそ、人間の本性があるとして、人間を突き放して見つめる。必然的に作品の彫りは深いが、読む者には日常感覚とは遠く離れた人間思考となる。我々は、快と不快、喜びと悲しみの混合メロディーの中に、適応努力する日常感覚を幸福感と実感する。しかしドストエフスキーは人間本性という名で、読者の固定観念に激しく警鐘を鳴らす。この衝撃がドストエフスキー作品には常にある。しかし、今回はこの違和感にもへこたれずに最後まで読破していこうと思う。疲れるかも知れない。いやになるかも知れない。しかし、この年齢になった。きっと最後まで読み切れるだろう。読み切りたい。

第1篇、僧アリョーシャは、長老ゾシマの僧院に面会を求めようとする、父、兄、親類等4名の来場をおどおどとして待機している。父は強欲な好色家、長兄は父に捨てられ育った放蕩息子、次兄は無神論者の大秀才、すでに地方新聞で教会裁判問題を論評し、世間の注目を集めている。親類ミウーソフはパリ2月革命に自己の進歩性を自慢する無神論者。この男達が一体長老ゾシマを前にして、何を論じようとするのか。アリョーシャは気が気ではない。

父は2人の妻を持った。しかし2人共、奴隷のごとくもてあそんで、挙げ句の果てに捨てて死なせてしまった。先妻は男と逃げて病気で死んだ。その報を聞いて父は喜んだ。さっそく、美しい16才の孤児ソフィアに好色な手を伸ばし、自分のものにした。しかし幾つかのひどい仕打ちでソフィアは狂い女になって死んだ。

3人の子供達は犬ころの如く、捨てられ、父から忘れられて育った。父は遺産すら全て自分のものにした。父はユダヤ人と近づき、大金をため込んで帰ってきた。次兄イヴァンは、大学でも新聞論説で金を稼ぐ程の新進気鋭の論説家。その次兄が何故か父の所に戻ってきた。これから兄たちは何を長老ゾシマと論ずるのか、純真な末弟アリョーシャはおどおどと兄たちを見守る。

好色家父フョードルがどのようにして、女を手にいれたか、その手練を作品の一部でみる。「おそらく彼女は女子の独立を宣言して、社会の約束や親戚家族の圧制などに、反対して進みたかったのである。ところでその彼女も従順な想像力のおかげで、フョールドはその身分は居候であるけれど、向上の気運に向かう過渡期の特色たる、勇敢にして冷笑的な人間のひとりであると、ほんの一瞬間でも確信してしまったかもしれない。その実、彼は意地悪の道化以外何物でもなかった。なおそのうえ、ふるっているのは、駆け落ちという手段をろうしたことである。これがすっかり彼女のお気にめしたのだ。」この男女のやり取りは、かってどれほど、進歩的といわれる男女の悔恨の最初の1ページに通ずることか。「第1篇、ある家族の歴史」はこんな内容で始った。

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