定年後の読書ノートより
カラマーゾフの兄弟、第2編、場所柄をわきまえぬ会合、ドストエフスキー著
第2編を読み終って、念の為、書棚にある山村房次「レーニンと文学」除村喜太郎「ロシア文学について」のドストエフスキー論を読んでみた。2冊とも、誰某はこう論じたという引用文ばかりで、著者自身がドストエフスキーをどう読んだのか、どこにも、何も書いてない。しかも2冊とも、こうした他人のセコハン論を抽象的な、しかも不毛な論議で重複しているだけ。よくもこんな文学論を平気で書いていたものだとあきれてしまう。

こうした文学論の延長線上に、独裁者スターリンの社会主義社会が成立していたのではなかろうか。次元の高低や、意識の深浅が問題ではない。要するに、自分の思ったことを何も言おうとしないばかりか、官製理論の焼き直しだけが、陽の目をみただけの文学論なのだ。しかし、こんな文学評論が、スターリン独裁時代では長く続いていたのかと思うと、ロシア国民の悲劇の大きさが伺い知れる。まだまだロシア再生には時間がかかりそうだ。

第2編、「場所柄をわきまえぬ会合」、は末弟アリョーシャが心配した通り、大荒れだった。長老は、無作法な男たちを前に、体力ぎりぎりの応対でとうとう床に崩れた。アリョーシャは、顔面蒼白になって長老ゾシマをベットに担ぎ込む。しかし僧庵の騒ぎは更に大きくなっていた。父フョードルは、自宅からふたたび僧院に引き返し、食事に並ぶ男たちを激しく罵り、僧院を後にした。アリョーシャはもう僧院を辞する外あるまい。

作品の中にドフトエフスキーの、きらきらする思考があちこちにある。

長老に詰め寄る信者の女、「仕合わせはどこにあるのでしょう。私は不仕合わせです。神を信じることは出来ません。信念を得ることはできるのでしょうか

長老応えて曰く。「実践の愛を体験することです。隣人への愛の努力が成功するにつけて、霊魂の不死も確認できるのです。もし隣人に対する愛が完全な自己犠牲に到達したら、そのときこそもはや疑いもなく、信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、あなたの心に忍び寄ることはできません。

一方、僧庵の中では秀才イヴァンは、長老ジシマを前にして、彼の無信仰理論を展開する。

人類を愛すべしという法則は、存在しない。もし地上に愛があるとすれば、それは人類が自己の不滅を信じているからだ。もし人類不滅の信仰が滅したら、愛は直ちに枯れ死し、あらゆる生命力はなくなり、自然の道徳律は悪行ともいえる利己主義だけが横行するだろう。

長老曰く「貴方は本当に人類が霊魂不滅の信仰が失ったら、そのような結果が生ずると確信しておいでかのう。その思想はまだ決められてはいないのう。貴方の解決が早く得られるように祈ろう。」

長老の前で終始道化ぶりを発揮していた父フョードルと遅れてきた長兄ドミトリーの決定的対決は、娼婦的人妻グルーシェンカを2人で奪い合っている実態をさらけだした時だった。しかし驚くことに、長老ゾシマは兄ドミトリーの足元にひっざまづき低頭の礼をしたことだった。

何故長老ゾシマは低頭の礼をしたのか、アリョーシャは一人悩む。これは兄の寿命が残りわずかな時間であることを長老が見抜いたに違いない。アリョーシャはそう考えてしまう。

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