定年後の読書ノートより

カラマーゾフの兄弟、第3編淫蕩なる人々、ドストエーフスキイ著、河出書房
他人の不幸を喜び、他人を排撃し、自分のことだけしか考えない人間がいることは事実である。このような人間を満足させることは、自己を犠牲にして善いことをすべきだという常識と矛盾する。このような他人の不幸を喜ぶ人間の幸福感を、「適応なき幸福感」という。例えばある種の精神病、病的な躁鬱状態を繰返す人、宗教的・神秘的な法悦状態におちいる人達がそうである。ドストエーフスキーはこうした「適応なき」人々を作中人物に多く取り上げ、作品の彫りを深くしている。「カラマーゾフの兄弟」の作中人物もそうした「適応なき」人々の集まりである

登場人物は放埓の世界を自己の足場とする。教会で散々な道化ぶりをはっきした父フョードールは、広い我が家に帰って次兄イワンとコニャックを飲み交わす。父フョードルが女たちをいかにもてあそんできたか、話は父無し子を産んだ、白痴女から始る。仲間にあんな白痴を抱けるかと侮られ、いや抱けると応えた父、父は、白痴の娘リザベーダに子を孕ませたのか、女は屋敷内でスメルジャコフを生んで、死んだ。スメルジャコフは、下僕の元で育てられる。

アリョーシャは庭先に潜む兄ミーチャにつかまり、誇り高き中佐令嬢カーチャをいかに許婚にしたか、過去の顛末を聞かされる。しかし兄は許婚を捨てて、娼婦的人妻グルーシェンカの誘惑に勝てず父と女を奪い合う。飲んだくれの父に、ドミトリーは殴りかかり、父は殴られ、半殺しにあう。カーチャを恋しながら、何故か一方では、娼婦の悪魔から逃れられないドミトリー。

アリョーシャは兄の伝言をもって中佐令嬢カーチャを訪ねる。しかしそこには娼婦グルシャーガいた。2人の女は、当初驚くほど理解し合い溶け合った雰囲気にあったが、高慢と屈辱がぶつかりあった瞬間から、2人は激しい言い争いになる。アリョーシャは失意の中で、教会に戻る。そこでは長老ゾシマが生涯を閉じようとしていた。

はらはらする場面の一つは、カーチャを落とし込む為仕組んだドミトリーのわなに落ちて、父の危機を救おうと、自らの危険を覚悟でドミトリーの下宿を訪れた、誇り高き高潔な中佐令嬢カーチャを前にしたドミトリーの心の流れ。

「その瞬間のあの人の美しさは、あの人が高潔この上ないのに引替えて、おれは一個の陋劣漢。あの人が父の犠牲として、偉大な無私というものの絶頂に立っているのに引替えて、おれはまるで南京虫に等しいんだ。この俺の為に、あの人は、精神も肉体も一切をあげて、生殺与奪の権利を握られているのだ。俺は腹蔵なくうちあけるが、この想念はー毒虫の想念は、もうしっかりとおのれの心をつかんでしまって、悩ましい焦燥の為に心臓が溶けて流れないばかりだった。」

このページの最初に書いた、「適応なき幸福感」の人間像にドストエフスキイの作品は、読む者をはらはらさせるが、果たしてこの作中人物が作り上げる世界から、どんな人生舞台が開けてくるのか、次は第4編、「破裂」にはいる。

ここをクリックすれば、読書ノートの目録に戻れます。