定年後の読書ノートより
カラマーゾフの兄弟、第5編、Pro et Contra, ドストエフスキー著、河出書房
Pro et Contraとは、「味方と敵」とでも訳すべきだろうか。「戦争と平和」でもそうだったが、当時のロシア文学には、フランス語が、頻繁に使われている。

この編には、テーマが3つある。屈折した貧者にどう対応すべきかアリョーシャとリーザの対話。2つめは、猟犬に召使の赤子を食いちぎらせる幼児虐待の残酷な話、そして3つめは有名なる詩劇大審問官、この底知れぬ3つの湖を見つめていると深い溜息がもれてくる。人間というものをこれほど深く把握した小説が世の中にあったとは知らなかった。

第1の湖、

僧アリューシャは2等大尉に金を渡したい。他人の目前で大金を喜び過ぎた自分を恥かしいと、自己嫌悪になっているに違いない。貧乏人は、皆から恩人顔されるのが耐えられないのだ。貧乏人に自信を与えることが大切なのだ。もしこの会話がイヤラシイ男達の会話として描かれたらこの部分は読むに耐えない貧者侮辱の会話になってしまう。僧アリューシャの誠実な人柄に、読者はかろうじて救われる。

第2の湖

子供は無垢にもかかわらず虐待される。子供のたよりなさが、嗜虐者の心をそそるのか。猟犬を傷つけたと召使いの子供を丸裸にし、母親の前で猟犬に殺させた男の話。暴虐者の為の地獄など必要ない。この世に調和なんて許容出来ない。罪無き者が苦しめられてしまった後で、調和が何の助けになろう。あがなわれざる苦悶と、いやされざる不満の境に置け。「調和」の入場券なんて、お返しする。

第3の湖

詩劇。キリストが長い沈黙を破って、密かに地上に降りてきた時の話。キリストは牢につながれ、異教徒審問官はキリストを問い詰める。審問官曰く。「 なぜ、お前はわしらのじゃまをしにきたのだ。お前は「人はパンのみにて生きるものにあらず」と唱えたが、彼等人間達が自由でいる間は、いかなる科学でも彼等にパンを与えることは出来なかった。彼等は自分の自由を我々の足もとにささげて、自由とパンは両立しがたいものであることを自分で悟ったのだ。人間は放蕩者であるけれど、従順になる。パンさえ与えれば、人間は足元にひざまつく。しかし人間はただ生きることばかりではない。何の為に生きるかという観念がなかったら、どんなに周囲にパンを積まれても、いさぎよしとしない。しかしお前は自由を支配することでなく、自由を増しただけでは間違っていた。人間には平安のほうがはるかに大切なのだ。人間にとって、良心の自由ほど魅惑的なものはないけど、これほど苦しいものもない。いくじのない彼等をとりこにしておくには、奇跡と神秘と強権しかないのだ。お前は人間をあまり買いかぶり過ぎていた。人間はやはり奴隷に過ぎない。人間はお前が考えたよりも、はるかに弱く、卑劣に作られている。我々は人間の無力を察して、その重荷を減らしてやった。人間は自分の自由を捨てて我々に服従して来たとき、はじめて幸福になった。我々は彼等が自分で獲たパンを取り上げて、再び彼等に分配してやるとき、彼等が喜ぶのは、パンそのものより、むしろ我々の手からそれを受けることなのだ。永久に服従することがどんな意味を持っているか、彼等は理解し過ぎるほどに、理解している。我々は彼等に労働を強いるけど、我々は彼等を愛し、許してやる。恐ろしい苦痛からのがれ、彼等は楽しく服従している。これで良いではないか。キリストは、無言で大審問官の話を聞いていたが最後に口付けをして、何処ともなく闇の中に消えていった。

ここをクリックすれば、読書ノートの目録に戻れます。