定年後の読書ノートより
カラマーゾフの兄弟、第7編、アリョーシャ、ドストエフスキー著、河出書房
かって北京天安門広場毛沢東記念堂で、毛沢東の遺体安置室を訪問した。まさに毛沢東の生前の顔付きそのものの遺体が、ガラス棺の中に安置され、思わずギョッとした。どうして大陸の人間は、死後の姿をああまで生々しく保存することにこだわるのだろうか。不気味さを実感した

永眠せる大主教ゾシマ長老の遺骸は、人々の好奇心の的であった。故長老は大主教の僧位を持っていたから、彼の遺骸からは腐屍の匂いがあってはならないと人々は断じていた。腐臭なき安置の奇跡は必ず起こらなければならない前提にあった。埋葬の準備を終えた長老の遺骸を棺に納めて、部屋に運び出した時、棺の傍にいた人々の間に、窓を開けなくても良いかという疑問が生じた。しかし、誰かがちょっとすべらしたこの疑問には、誰ひとり返事する者もなかった。なぜなら、こういう聖者の死体から腐敗や悪臭を期待するのは、あまりにも馬鹿げきった話であって、こういう質問を発した人の信仰の薄いことや、考えの浅はかのことは、憐憫に値することであった。

ところが、正午過ぎて間も無いころ、人々は部屋に入ったり出たりする度毎に、他人に言えない秘密を恐れるようになった。3時頃になると、この秘密はもはや否定出来ないものと明瞭になってきた。この報知は飛ぶように参拝の巡礼者に行き渡り、ごくわずかな間に町のすみずみにまで行き渡った。

信者不信者の別なく、この報は人々を動転させた。不信者は飛び上がって喜んだ。信者の方はどうかというと、彼等の中にも不信者以上に欣喜雀躍した者があった。なぜならば、故長老が自分の教訓の中で説いた通り、「人は正しき者の堕落と汚辱を悦ぶ」からである。

棺の中から、刻一刻と烈しく腐屍の匂いが発し始めて、3時頃には、もはや明らかにそれと感じられるようになってきた。

腐敗が人々が認めることになるやいなや、故長老の庵室に入ってくる僧たちの顔は、毒々しい眼の中に、ありありと輝きだした悦びの色を隠そうともしなかった。僧たちはなんのために庵室にやって来たのか察することは容易であった。今日決してここへ来るはずのない人達までもが、わざわざ駆けつけてきた。やがてまもなく式場の作法までが崩れだしてきた。

ドストエフスキーの小説形成手法として、他人の不幸を悦ぶ人物像を作ることが上手い。彼等に人間社会の陰の部分を演じさせ、作品を彫り深くするのが実に上手い。ここでもドストエフスキーが醸し出す、他人の不幸を悦ぶ隠し笑いが作品の中から聞こえてくる。

人間世界の裏に忍ぶ隠し笑いこそが、ドストエフスキーの見る人間哲学なのだろうか。底知れぬ恐怖に感じられてくる。人間の真実に迫っているようでもあるが、病的な視点に立っているとも言える。

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