定年後の読書ノートより
「敗北」の文学・再読、宮本顕治著、筑摩書房、現代日本文学体系54
もし「貴方の最も愛する1冊は何か」と尋ねられたら、迷わず本書を挙げる。宮本顕治氏22才の作品を、63才の自分は未だ乗越えることが出来ない。ほんのすそ野を徘徊すれども、氏の作品の頂上を極めることはとても出来はしない。しかし誰がこの作品を乗越えて行けたのか、自分はその人の名前を知らない。勿論世の多くの知識人達は敵わない作品は黙殺するようだが。

書き出しはかって東大入試問題に出題されたこともある。;「文人」という古典的な文学に相応しいとされていた芥川氏の住んだ世界は、永い間、私にとってかなり縁遠いものに思えていた。この作家の「透徹した理智の世界」に、私は漠然、繊細な神経と人生に対する冷眼を感じるだけであった。;実に美しい有名な書き出しの文章だ。

芥川氏は、小ブルジョアジイの属性から生涯脱けだすことは出来なかった。彼の生存基盤を支えたものは氏の智的才能だけであり、彼の自我がどれほど芸術的世界に没入しようとも、彼の魂はそれに安住することは出来なかった。彼は民衆の偉大な創造力が、芥川文学に否定の刃を向けるものであることに気付きながら、最後までかれは民衆の道を進む勇気は持てなかった。

資本主義社会の凡俗性と醜悪な雰囲気に嫌悪を意識しながら、芥川氏のつぶやきは「理性が私に教えたものは、畢竟理性の無力であった」。あの松尾芭蕉も300年前の大山師に過ぎず、この俳人の不敵な面魂こそ、芥川氏が必死によじ登ろうとした城壁であったことを芥川氏は次第に気が付き、自己嫌悪に陥っていく。

「或阿呆の一生」は過渡的インテリゲンチュアの歴史的高塔である。芥川氏の病苦の中に、「この社会に対する恐れ」が、強く影を落している告白を、我々はこの作品の中に聴く。それは資本主義の悪を認めてその中に安住する自身を恥じる心であり、明日の日を望みつつも、傷つき易い自我と社会的な重圧に堪えずして、苦しまなければならないあらゆる小ブルジョア・インテリゲンチャの痛哭をそこに漲らせている。芥川氏の冷然とした情熱の中に、自己への絶望をもって、社会全般への絶望におきかえる小ブルジョアジイ敗北主義を見る。氏の文学こそはこの自己否定の漸次的上昇を具体的に表現しているのだ。

風流的安住が無力であるのみならず、究極において自己を滅ぼすものであることを、氏の羽ばたきによって我々に警告した。

だが我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判しきる野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞しくするために、氏の文学の敗北的行程を究明してきたではないか。「敗北」の文学をーそしてその階級的土壌を我々は踏み越えて行かねばならない。

宮本顕治氏は12年間の網走刑務所の牢獄の中で、この最後の文章を単に決意としての方向にとどまらず、実践的感情としてためらいなく、自己肯定出来ると確信する。

ここをクリックすれば、読書ノートの目録に戻れます。