定年後の読書ノートより
人間性の心理学、宮城 音弥 、岩波新書
岩波文庫「人間とは何か」を読んで、常日頃人間性に関する幾つかの意識は、先人のコピー・セコハンに過ぎないのかも知れないし、もしそうだとすれば、人生哲学の基本である幸福とは何かという大切なテーマそのものも、改めて別な視点から、考え直すべきかも知れないと考えるようになってきた。宮城音弥「人間性の心理学」は従来文学者や哲学者が取り上げてきた人間性という抽象的テーマを心理学の立場から、解析していこうとした試みであり、この科学的人生論の試みである幸福についての著者の考察を拝聴した。

幸福とは何か。心理学では明確に定義づけている。

「精神的適応状態の意識的側面」と難しい定義づけであるが、内容は「人間は衣食住を満たし、異性を獲得する。こうした適応に成功した時、自分は適応しているという感じを持つ。適応状態を意識する。これが幸福である。

適応感=幸福感であるが、厳密にいえば、自然的適応と社会的適応があるから、社会的不適応を示す不安を意識しないならば、それは幸福感を持っているということになる。さらに厳密に言えば、適応感=幸福感とはいえないケースもある。精神病の場合とか、宗教的法悦心境の場合は別である。

幸福感があるからには、幸福という実体があるはずだ。しかし幸福感を感ずる人で不幸な人がいるし、幸福感を感じない人で幸福な人もいる。ということは幸福は実体として証明しにくい。だから心理学では幸福をテーマにしなくなったという経過がある。

幸福感はその社会、その時代で変っていく。ということは幸福という実体は、個人を離れて存在している。だからこそ、ベンザムは最大多数の最大幸福を社会的行為の目標にすべきだとあげている。

しかし、我々が日常、幸福と称するのは主観的な、心理的な幸福感のことである。では幸福=快と言い切って良いのだろうか。そうは言えない。快と不快は精神の中に、部分と全体として同時的に存在する。だから快=幸福とは言い切れない。また快=喜び、不快=悲しみとも言い切れない。なぜなら快、不快というものは部分的であり、喜び、悲しみというものは全体的だからだ。しかし、全体的である喜び、悲しみの中にも将来という次元までは含まれていないから喜び=幸福とは言い切れない。

結論として、快、不快、喜び、悲しみが混じてメロディーのようになって、人間の精神的状態が成立つなかで、幸福とはその精神的適応状態の主観的側面をいうものである。

次に大切な幸福そのものの実体に戻ると、人間は社会的動物であるから、完全な適応とは個人だけでは可能でない。幸福の実体は個人の社会的適応にある。

我々は、他人が喜んでいるときに喜び、他人が悲しんでいるときに悲しむ。従って、当然、他人を喜ばせようとする。自分が「喜び」を得る為には、他人を喜ばすというのは利己的であって、人間はその目的を意識せずに他人を喜ばせている。それは水を飲む時、身体に水を補充する目的を意識していないで水を飲むのと同じだ。

目的があっても、それを意識するとは限らない。社会生活が完全に行われているのは、人間が「持ちつ持たれつ」の生活をする時であり、共生というべき状態である。総合的な幸福は愛である。愛の場合は個人の喜びは相手の喜びと統一される。

他人の不幸を喜び、他人を攻撃し、自分のことだけしか考えない人間には、そうすることが幸福であろう。このような人間の幸福感は、すでにのべた精神病の場合とか、宗教的法悦心境の場合の幸福感と同様に「適応なき幸福感」である。

社会に適応している者は自然に他人の幸福を考える。愛する人の幸福が自分の幸福であるのは自然的である。

幸福とは、自分を犠牲にする喜びを含むことを忘れてはならないし、幸福とは、自然的愛情と切り離されたものでないことを忘れてはならない。

以上の心理学的幸福論は、マーク・トウェインの「人間とは何か」の辛辣な人間指摘に対し、十分な回答になるのではないか。僕はそう思う。

ここをクリックすれば、読書ノートの目録に戻れます。