定年後の読書ノートより
私とは何か、上田関照著、2000年4月発行、岩波書店
表紙裏に書かれた本書案内;

「我は我なり」という。その「我」とは一体どういう存在か。自身の立つ場所しか眼に入らず、その情念に身を任せてはいないか。あるいは反対に自分を失って周囲におもねることばかりしていないか。そして自分を無にして「他者」に開かれるとき何が怒るのか。西田、漱石、ルターなど東西の例を検証しつつ「私とは何か」という問題に迫る。以上が本書案内である。

ここで、最初の数ページ目の無作為の一節を取り出し、どんな内容か、ご紹介したい。

個々の人間が「私」と言う時、すでに法的、倫理的、宗教的に何か問題が始っていると考えられる。さらに、「私」「我」にはなにか根本的な不安定があり、これも基本的に問題になるところのである。「私は私である」ところの「私」に固有なことろとして、自同性(自己同一性)、自覚、自由が挙げられるが、この三者はそれぞれに不安定である。自同性(自己同一性)にはアイデンティティの喪失ないし自閉、自覚には無自覚、自由には不自由がということがあり、現実にはほとんどの場合、後者の否定的な変要態になってしまっている。ということは、「私」というあり方には「私でなくなる」可能性ががじめからあるということであろう。

上記の無作為に取り出した一節を果たしてどれだけの人が忠実に読み、理解されるだろう。殆どの人が途中で本を投げ出すか、理解もせずに目を走らせて、最後にあの本を読んだ、読んだと他人に手柄話をなさるのが一般的でなかろうか。しかし、「私とは何か」という、この自分にとって切実な問題が、どうして1冊の本になると、こうも難しく、他人事としてしか、書かれないのでしょうか。世のもの描きと言われる人達に激しい憤りすら感じませんか。

「私とは何か」。この切実な問題に関し、自分は自分史の中でこんな風にまとめて書いています。このまとめは、大学受験に失敗し、我が生涯最大の挫折に立たされた際の、一つの悟りとして、「マンガで仕上げた自分史」に告白しているものです。

よく耳にする言葉ですが、自分とは一体何でしょうか。自分とは何はさておき先ず食べ、住み、着なければならない存在だと思います。食べ、住み、着ることこそ生存必須条件、これは自分の中の土台です。自分とは生存必須条件の土台構造と、精神活動の上部構造から成立っています。生存必須条件の土台をしっかりと固めること、それは生活力を固めることと同義語だと思います。この土台こそが人間を動かしていく原動力です。土台を無視して上部構造にのみふらふらと迷い込むと、土台そのものが自分の視野から見えなくなってきます。その証拠に、世の中にはなんと宗教的な観念論哲学なるものが普及していることでしょうか。自分とはなにか、多くの哲学者はぶつぶつと判りもしないごたくをならべたて我々を脅します。若い時代は、ともすれば信念とか、哲学とか、思想とか神秘的、観念的な言葉に憧れ、酔いしれて、上部構造に相当する精神的構造物だけを自分の内面にどんどんと創りあげてしまいます。その結果土台の存在そのものが自分の視野から見えなくなり、土台こそが自分の生活力だという現実感覚を見失なってしまうのではないでしょうか。「自分を見詰めろ」とは、先ず現実感覚を取り戻し、土台こそが大切なのだと再確認することだと思います。生活力そのものをがっちり固めれば、その土台の上には必ずバランスのとれた上部構造が作られていくと思います。ここで念を押しますが、現実感覚とは決して精神的活動を軽視したり、自分の前途に横たわる困難を避けて通り抜けようという日和見主義的な思想では有りません。よく現実を見つめろということです。

以上が、私の「マンガで仕上げた自分史」に書かれた「自分とは何か」の若き日の我が悟りです。この度、偶然の機会から、自分がもっとも関心を持っている、「自分とは何か」というテーマに関して、最新刊の岩波新書を手にしました。しかし、この岩波新書から実感したことは、何故こうした観念論的人生観が、いまだに多くの知識人に好まれて読まれるのか、それは、もっと唯物論哲学の世界から「自分とは何か」という問題に関して、新しい論文が発表されるべきではないのかという苛立たしさを感ずる次第である。如何なものでしょうか。

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