定年後の読書ノートより
ドストエフスキーは変節者か、工藤誠一郎著、中公新書(1990年988)
スターリン時代の文化的知識人のドストエフスキー論とは、凡そ次のようなものであった。

「専制君主に無残にも敗北したドストエフスキーは、青年時代の空想的社会主義を拒否し、ツァーリズムの野蛮な締め付けの下に、政治的後退の悲劇を甘んじて受け容れ、解放の教えに対する心酔を、我と我が手で自分の心からえぐりとった。」と。

即ち、ソ連知識人達は、ドストエフスキーの思想的変節と反動化を非難し、語気強く、断罪していたのである。

確かに、ドストエフスキーはツァーリズムの弾圧により、銃殺刑寸前まで追いつめられ、その以後、長いシベリア流刑を苦しまねばならなかった。しかし、かれは青年時代の空想的社会主義思想を放棄した転向者だったろうか。

ドストエフスキーの性質は、のめりこみ、懐疑という粘着的な暗性の性質が著しい。彼の人生思考は、この性質の下に熟成され、虐げられし人間の混迷の脱出口を最後まで探求し続けていたのではないか。ドストエフスキーを否定することは容易である。しかし否定することによって、ドストエフスキーが探し求めていたものまでが、見えなくなりはしないか。

空想的社会主義は、個人と社会の調和を創り出そうとする。空想的社会主義が求めた幸福とは、人間の能力の絶え間なき発達と、豊かな充足、社会の進歩と福祉の成長である。当時の空想的社会主義は多分に宗教的であったともいえる。

同時に、ドストエフスキーに於いては、スラブ・ナショナリズムの強い影響も無視出来ない。ロシアの世界的使命は、東と西の仲裁者になることだ、ドストエフスキーに流れている西欧文明批判は、西欧の社会主義者達が、教義の根底に高潔な目的を置きながら、実際面では幾つかの不信を拭い得ない。西欧社会主義者とは誠実なる空想家達だとドストエフスキーは断じていたようだ。ドストエフスキーは、ロシア社会発展のための源泉を西欧社会主義者の理論にではなく、ロシア民衆の生活や、歴史的伝統、例えば農民の幾つかの制度の中にこそ社会主義実現の基盤があると見抜いていたようだ。西欧嫌悪とスラブ・ナショナリズム傾倒にドストエフスキーの空想的社会主義の基盤が求めらる。

従って、後年のドストエフスキーの作品に追求されているテーマは、変節ではなく、神と社会主義という相容れない両極のテーマをスラブ魂という器の中で融合しようとして、矛盾に引き裂かれ、深まる疑惑に苦悩しながら、壮絶を極めた闘いであったと見るべきであり、これこそドストエフスキーが青年時代心酔した空想的社会主義の延長線上にあったと言えないだろうか。

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