定年後の読書ノートより
李陵、中島 敦 著、ちくま日本文学全集
過日、深田 久弥 氏のシルクロードを読んでいたら、中島敦著李陵推薦の文章が出てきた。深田久弥氏は、1929年雑誌「改造」懸賞論文で宮本顕治氏の「敗北の文学」と小林秀雄氏の「様々なる意匠」が激突した際の審査員の一人である。事前に小林秀雄氏はしっかりと深田氏にワークし、小林氏は第1位間違い無しと自覚し、あちこちの飲み屋にすっかり借金を作っていたという裏話は有名。

その昭和の文豪深田久弥氏が中島敦氏の「李陵」を評してこういう文章を「シルクロード」に書いている。

中島敦の小説「李陵」を私は昭和文学で最も傑出した作品のひとつに数えているが、漢の武帝の天漢2年、李陵が歩率5千を率い、酒泉を出発して漢北へ向かったのは、このエツィン・ゴルの沿ってであった。当時居延には路博徳がいた。その博徳の武帝への意地悪い上奏文によって、李陵が不運な戦争をしなければならなくなった。詳細は「李陵」に詳しい。

中島敦氏は昭和17年34歳で他界している。喘息をこじらせたそうな。東大国文を卒業し、生涯21編の作品しか残していない。氏の作品が認められたのは、戦後彼が亡くなってからである。

李陵という将軍が凶奴に捕まり、生涯を囚われの身で過ごす。しかし彼は漢に名をはせた大将軍だった。武帝の激しい怒りに対し、司馬遷は、下級役人ながら異を唱え李陵を守ろうとした。武帝は怒り、司馬遷は宮刑、生涯その怒りのもとで、中国歴史編纂に自らの全てをかけて没した。

一方、敵地に囚われの身となった李陵は、節を曲げず、自分を通したいという気持ちと、それは不可能だと悟る間で大きく揺れる。その間、李陵の裏切りを武帝に告げるかってのライバルに怒り、敵地で歯ぎしりする李陵。しかし節を曲げず、祖国に忠誠心を貫く旧友蘇武の生き方に衝撃を受ける李陵。その姿はあたかも非転向のコムニストに対し、揺れる心を苦しむ転向者の心を描いているとも受け取れる。

この作品の文章は実に格調高く、難解であり、漢文素養がないと、この作品を読むことすらも困難である。しかもこの張り詰めた漢文形式の作品の中で男の苦しさは見事に描かれる。深田久弥氏が昭和文学の最も傑出したひとつとして紹介された意味が良く判る。ピーンと張り詰めた、昭和17年でないと書けない作品である。中島敦は敗戦を知らずに死んだ。まだ34才であった。

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