定年後の読書ノートより
人間とは何か、マーク・トウェイン著、中野好夫著、岩波文庫
「ハクルベリ・フィンの冒険」とか「乞食と王子」の作者マーク・トエインは60才後半、彼の思想において、極めて人間不信・決定論的人間論が色濃くなった。彼の思想のこうした背景として、長女の死、末娘のテンカン発作、莫大な借金、妻の重病等の幾つかのマイナス条件があげられる。しかし、彼の深層心理の苦悩には、訳者中野好夫氏も、「ある程度共感するところがあり耳を傾けるべきだ」と指摘する。ここでは、彼の人間論の幾つかの断片をメモした。論理の一貫性はないが、言葉は原典に出来るだけそっている。

物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。それが家族に与えるうれしそうな顔、それを見ている精神的満足に喜びがある。なにも金そのものに物質的価値なんてありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちゃえば、あとに残るのはカナクソだけさ。すべての物がそうなんだ。物質的価値なんてあるものか。精神を満足させる限りは貴重だが、それがなくなりゃ一文の価値もない。

人間の善になんか、無関心だよ。関心があるのは、自分の欲望を満足させること。人間のためになる行為を選択させる教育・訓練によって、人間はより自らを満足させてくれるものを選ぶようにはなるね。仮に高い理想へ教育したところで、求めるものは相変わらず自己満足感だけで、人間の為なんかじゃないよ。自分の満足がえられれば、人間への結果など、考えもしない、要するに盲目・無理性の本能さ。

人間なんて機械だよ―人間も非人格的な機械に過ぎないさ。外的諸力によって動かされ、導かれ、左右されるだけよ。自ら創り出すものなんてありゃしない。手本という過去からあるものの真似だけで、外からの力で人間は衝動が促され、行動にでるのさ。そんな行為に人間的価値なんてコレッポッチもありゃしない。

衝動から行動にでる。その奥には心の慰めがある。人間は己の心の満足を求めているということさ。同情、それは自分自身の気休め行為さ。宗教の教えも、家族愛も、そして心のやさしさも、高い信条も、ひとたびそれが心の平安ってことと背馳しだすと、もはやなんのお役にもたたないんだな。心の平安につながらないものは、誰が何といおうと何ひとつやらせることは出来ん。自分でまず良しとしなければ、人間、とうてい安心はえられんのだ。

我が身を犠牲にして、燃えている建物から子供を救いだすのは、その男の性格が持っている掟だってことだろう。結局その男にしてみりゃ、彼自身による掟ってこと。つまり己れ自身の自己是認を得なければならんという主衝動、強制力というものは、ただひとつ、自分自身の満足を得なければならんということだ。愛だって同じ衝動さ。

義務ってのはね、なにも義務だからやるってなもんじゃない。それを怠ることが、その人間を不安にさせるからやるに過ぎない。人間は自己犠牲なんてことを口にする。だが言葉の通常の意味からすれば、そんなものは存在しないし、かって存在したこともない。我々人間って奴は、心の満足を買う為に、どんなことでもやるものだよー例えば他人の命を奪うことだってやるって風にな。

わしたち人間の良心って奴はだよ、それがわたしたち自身に苦痛を与えん限り、他人の苦痛なんてことは、てんで念頭にはない。それが私達自身までを不愉快にしないかぎり、他人の苦痛なんて例外無く無関心ってことよ。

思想を口にする奴がいるが、みんな要するに、セコハンで言っているに決まっている。人間誰一人、自分の頭で思想をつくりだすなんて、そんなこと絶対にありえっこない。つまり行為って行為は、すべて自己満足の衝動から生まれるものさ。

他人のために自己犠牲をやる人間なんて絶対にいない。つまり他人の為だけの自己犠牲なんてものは有り得ない。確かに人間他人の為に自己犠牲はやっている。だがそれもまず第一には自分のためなんだよ。なによりもまずその行為は、常に自分を満足させるものでなくちゃならないんだ。

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