定年後の読書ノートより
読書と私・書下ろしエッセイ、芥川賞・直木賞作家29人、文春文庫
ショウペンハウエルの「読書について」に続いて、芥川賞・直木賞作家29名が書いた「読書と私」なる書下ろしエッセイを読んだ。ショウペンハウエルの哲学を一歩も飛び越えている作家は一人もいない。皆、ショウペンハウエルが語った枠中で、自分の思いをのべている。

26名の作家の中で、最後に書いている、渡辺淳一の「読書について、断片的に」が比較的この中では一番面白いと思ったので、引用してみた。

最近の子供達は本を読まないという。テレビばかり見て、読むといえば漫画か劇画で、活字離れが甚だしいと、世の親たちや先生は嘆いているらしい。だが本を読むということは、それほど大切なことなのだろうか。そしてテレビや漫画ばかりを見ていては、本当にいけないのだろうか。作家である私が、こんな疑問をなげかけるのは問題があるかもしれない。しかしテレビや漫画がいけない、という考え方は本さえ読んでいればいい、というのと同じくらい偏見的すぎるように思う。たとえ読書がすべてといわなくとも、「なんでも読書が一番」という活字信仰は、少しいかがわしいところがある。

一連の映画は、その後の私の成長にずいぶん大きな影響を与えたし、作家になっての現在にまで、なおさまざまな形で影を落している。そして当時読んだどの本より、これらの映画の印象のほうが強く新鮮であった。しかし、だからといって私は活字を否定するわけではない。小説や評論は、それなりに人生を教え、それなりの感動を与えてくれる。

作家にとって、文体は生理そのものといえるが、その意味で「異邦人」の文章は私の生理にきわめて近く適合していたともいえる。これらに比べれば、かって旧制高校生が必ず読んだといわれた「善の研究」とか「三太郎の日記」などは、まことにつまらなく常識的だった。かってのエリート達が必読署のようにこれらを読んで、画一的な青春を送ったかと思うと肌寒いような、不気味な気持ちにとらわれた。

読書の最大の効用は、いうまでもなく読むことによってさまざまなことを知ることであろう。そのなかには、社会や経済、歴史から一般常識、人生の不思議さと面白さ、ある人の生き方、さらにはそれらを巡っての抽象的な感覚まで、いろいろであろう。本を読むことで、これらを知り、考え、想像し、それらを自分の精神の糧として取り入れることは重要である。それで人間としての奥行きも視野も広まるであろう。

だが、それは別に読書だけにかぎったことではない。テレビでも映画でも、音楽でも絵画でも、その種のものは得ることはできる。いや、本になど見向きもせずひたすらに生きるだけでもそれらは充分得ることができる。

結局は、何をどのように感じ、それを自分のものにしていくかという感受性の問題である。ナイーブな感受性さえあれば、なにも読まなくてもいいし、百科事典的知識もいらない。よくワインにはどんな種類があって、料理のコースは何から始るといった類のことをもっともらしく披露している人がいるが、そんなことより、ひたすら一生懸命生きることの方が、はるかに多くのことを知り得るに違いない。

ただし、映像を見たり活字を読むことで感受性が磨かれ、人間として豊かになったからといって、それが即ち現世の幸せにつながるかというと、これはまた別の問題である。

本を読んだり、映画を見るということは、現実には正よりむしろ負につながる作業だということを忘れるべきではないだろう。

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