名古屋哲学セミナー  2003年 敗戦記念公開セミナー

 

どうして戦争をはじめたの?−「ノー」と言えなかった狂乱の時代― 

青木みか編 (風媒社刊)

 

記録を記録することの力―愛知憲法会議事務局長:森英樹著

青木さんは「どうして愚かな戦争をはじめたの?」という「戦争を知らない世代」からの問いかけに逃げることなく向き合おうと、この企画を立てられた。戦後自分史の地点から、世代間対話に向き合おうとしておられる。

 

第1章、  死者からの問いかけー15年戦争と私―青木みか著

小学校では忠孝が説かれ、朝礼では、皇居と伊勢神宮遥拝があった。女学校入学の年、盧溝橋事件が勃発した。昭和13年、国民精神総動員法。実弾射撃訓練や千人針。昭和16年太平洋戦争勃発。女学校を卒業後、たまたま女学校恩師の紹介で、内地勤務の軍人と縁談がまとまった。結婚式といえども、19歳の私はもんぺ姿、27歳の夫は軍服姿、しかし記念撮影すらなかった。結婚式挙式後、自宅で一泊した夫は、再び呉軍港へ戻っていった。私はそのまま、婚家の人となった。昭和20年6月、彼は朝鮮沖で潜水艦の攻撃を受け、27歳の生涯を海底に沈めた。虚脱の日々が続いた。

敗戦後、私は自活の道を求め就学し、卒業後、女子大学に30年間奉職した。198965歳の定年を迎えて退職した。

退職後、あらためて夫は戦争という不条理な現実と自己の罪悪感からくる心の葛藤の癒しを「歎異抄」に求めていたことに気づいた。「きけ わだつみのこえ」に記されたように、残忍・暗黒な軍隊に駆り出され追い詰められた若い魂、彼らの悲痛な叫びが切々と聞こえてくる。

すべての国民が体制順応型にならざるを得なかった。しかしファッシズムの時代にも、反戦運動に命をかけた人々もいた。反戦の旗を翻し中国の地で闘った人々。しかし、国内では小林多喜二は拷問で殺され、三木清は、投獄され獄死した。参戦も反戦も死へのプロセスであった。

 

第2章、あるキリスト教徒校長と戦争―なぜ戦争に反対できなかったかー佐藤明夫著

父は一高・東大へ進んだ。天皇崇拝とキリスト信仰を両立させようとしていた。忠君愛国論者であると同時にキリスト精神に基づく非戦思想が、父の信条でした。15年戦争が始まると、新聞はこぞって満州への武力侵攻を正当化した。子弟を伊勢参拝させなかったキリスト信者に民衆はいやがらせの迫害を加える事件が大垣で起きた。父はキリスト教の教義と国体は両立出来ると説いた。父は外見的には時流に妥協していった。父は戦争に反対どころか、結局は、加担、協力者になってしまったのです。

 

第3章、「皇国史観」の教育のもとでー幼時を樺太で過ごしてー竹田綾子著

樺太庁鉄道省に勤める父のもとで育った。鉄道施設工事には朝鮮人が酷使されていた。たこ人夫制裁は見るに耐えない暴虐であった。軍国教材によって、日本は神の国であると信ずるようになった。津の女学校から大阪女子専門学校に進んだ。多くのすばらしい先生に出会った。無知は恐ろしいと知った。無知は他人も自分も傷つける。ただただ勉強あるのみ。これが信条となった。

 

第4章、右向け右、前へ進め!−1930年代の「僕」−竹田友三著

1929年(昭和4年)小学校入学。和服の子が多かった。天長節には教育勅語の奉読。無邪気に紅白饅頭を頂戴したが、後日、靖国神社行きなど高価な代償が請求された。小3の夏、柳条湖事件。15年戦争の発端。兵隊がカッコ良く見えた。これこそ「少年倶楽部」が扇動するところだった。津中学に進んだ。徳富蘆花の「自然と人生」を愛読した。「修身」の教師ににらまれ、成績は散々。1浪して3高に進む。3高にはまだまだ自由があった。「歴史を謙虚に学べ」。これが若者への進言。

 

第5章、戦時下の青春―生粋の戦中世代からー松嶋欽一著

15年戦争真っ只中に学校生活を送った。明治節、天長節、紀元節式典での校長、この日ばかりは緊張のあまり声が震えていた。朝礼では泰安殿に向かって最敬礼。天皇や国体を持ち出せばどんな不合理な議論も批判的言論は封じられた。週に3回、銃剣で敵兵を刺殺訓練する軍事教練があった。車中読んでいた洋書に対し、特高はすかさず尋問を繰り返してきた。外国語に鍛錬な友人は英会話を学んでいたという理由だけで、過酷な拷問を受けた。彼はやがて27歳の短い生涯を閉じた。

 

第6章、残された言葉―戦争をどう考えるかー松中昭一著

昭和2年生まれ、今年74歳。「なぜ戦争を始めたの?」この問いに答えるのは我々老人の義務である。平和を願う人は先ず戦争を熟視しせよ。戦争とは国家間利益の対立である。戦場は悲惨だ。殉教と殉国は同じではない。特攻隊員は意に反して死んでいったのだ。合法的殺人が国家権力の名によってなされる。戦争は、常に最初は正義の仮面をかぶってやってくる。個人として正しく生きるとは、他人のことを考えて生きることだ。戦争に抗するには、人間としての資質向上が大切なのだ。

 

第7章、追憶  猪木 艶 短歌著。イラスト 猪木千里。

              散りゆきし吾子の好みし菜種和え 仏壇に供う朝餉の前に

              我が軍は不利なりと言い憲兵に 日々睨まるる靴音こわや

被爆せる子等を抱きてさまよえる 母の姿の耐え難きかな。

 

第8章、昭和の夜明けまでーわが来し方振り返ってー安江恒一著

明治42年東白川村生まれ、今年93歳になる。4キロの道を歩いて小学校に通った。同郷の越原先生のお世話で、夜間を卒業、中区役所に勤めた。職場では、反抗的だったり、言いにくいことをずけずけ言う人間はアカと陰口され、共産党は恐ろしいというイメージを誰もが抱いていた。私の故郷、山中の寒村が苦しい小作農農業からやっと解放されたのは、戦後だった。

 

第9章、忘れられないことー狂乱の時代を生きてー森田右著

大正7年生まれ、83歳である。津中学、8高、阪大を出て、九州大学、東北大学で物理学を教えた。大学在学中、友人に導かれ、ML読書会を重ねた。大学3年時特高に下宿を踏み込まれた。しかし「資本論」には「微分積分学」のカバーがかけてあり助かった。しかし戦後日本共産党員には何度も失望させられた。立花隆の「日本共産党の研究」にはうなずける。戦中、私は不戦を貫いた。しかし、反戦に踏み出せなかった。反戦は投獄か死かであった。戦前の再来を防ぐには、思想の自由、自衛隊のシビリアン・コントロール、貧富の差がない社会を作ることが大切だと思っている。

 

第10章、明治から平成へー激動の世紀を生きてー三浦文子著

数え92歳になった。御茶ノ水女子大を卒業、沼津の精華学園で国語の教師、昭和11年2.26事件の記憶は鮮明だ。お見合い結婚、夫について鹿児島、東京、名古屋、小牧と任地を転々とする。その間、子供に恵まれたが、夫小牧高校教頭のとき、結核にかかり、昭和20年5月夫他界。娘を抱え母子家庭となる。35歳。親子2人の生活のため、小牧高校に就職。周囲の人々の暖かい思いやりに支えられ戦後の苦しい時代を生きてきた。娘と聴く除夜の鐘が身にしみる。

 

第11章、新美南吉の社会観と戦争―抵抗への模索―佐藤明夫著

南吉の社会的矛盾への関心は、半田中学時代から芽生えていた。南吉の東京外国語学校当時の日記には、日本共産党の活動に共感、自らも左翼運動に接近しようと努めていた。プロレタリア文学からの大きな影響もある。南吉の社会科学学習は一過性ではなかった。1936年(昭和11年)の「赤旗」を南吉は保管・秘匿していた。「塀」「ひろったラッパ」に見る南吉の反戦思想に彼の鋭い意識が結晶している。1943年 南吉29歳にして他界。

 

あとがきー青木みか著

「どうして愚かな戦争なんか始めたの?」と問われたら、「知らぬ間にノーと言えない恐ろしい時代になっていたの」と答えざるをえない。ここにある体験談から、歴史書に見られない国民の真実の声に耳を傾けてもらいたい。戦争整備を進める小泉首相。そこには、権力を握った軍首脳が犯した同じ過ちが待っており、民主主義を破壊しないか。今こそ平和憲法の偉大な貢献を改めて見直したい。それは、わが国の平和な国家像を全世界に示すとともに近隣諸国からも信頼されることになるのだ。日本人の平和への渇望とその実現のために衆知を結集させたい。それは第2次世界大戦における贖罪ともなろう。

 

 

 

「どうして戦争をはじめたの?」、この本を読んでこんなことを考えました。

年会員 刈谷 西川尚武

新婚1夜にして、夫婦別々に引き裂かれた編者:青木みか先生の青春にこそ、国家権力の名において戦争とは、国民に何を押し付けるかはっきりと見えてくる。こうした戦争への思いは、国民一人一人の胸の底に秘されたままであり、現在となれば、自分史として、国民一人一人がこれをペンを執って書き残して置くしかない。

「どうして戦争をはじめたの?」。この問いかけには、各自は自分史を差し出すことこそ、テーマに対する誠実な態度だと思う。私もここに、自らの自分史を皆様にご覧いたただき、戦争への忌まわしい記憶の再来を阻む一人になりたいと思います。

 

私の自分史(第5章)― ベルリンの壁崩壊から学んだ現実感覚―西川尚武

会社生活40年、中国には、技術交流会で、何十回となく出かけました。大連から広州まで、中国大陸はほとんどの地区を訪ねました。北京に近いある地方都市に党中央幹部と一緒に出かけた際の経験。その日の道路はすごい渋滞でした。党に所属する運転手は突然「中国共産党中央委員会」という一枚看板をフロントガラスに掲げるや否や、対向車線に出て、対向車線を猛烈なスピードで走り出しました。同乗の党幹部は素知らぬ顔で目をつむったままです。こんな光景は中国では日常茶飯事なのでしょう。長征を舞台にストイックな印象を与えている中国共産党にして、その実態は民衆軽視の権力政治です。

私が卒業した東京の都立目黒高校は、あのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実氏の娘揚子さんが戦中通学されていた学校であることを、「愛情は降る星の如く」を読んで知りました。しかしあの当時スターリンはゾルゲグループが必死で掴んだナチスドイツがソ連を電撃侵略するぞという極秘情報を個人的判断から、即ちスターリンが締結した独ソ不可侵条約を愚弄するニセ情報であるとの独断からこれを握りつぶし、結果としてソ連はナチスから甚大な敗北を被った歴史があります。これは明らかに独裁者スターリンの責任です。社会主義は、ひと握りの独裁者が容易に政治権力を握り易い政治システムだと自分は思います。スターリンの犯した粛清という名の暴虐も、あの国に民主主義が充分根づいていなかったという歴史の悲劇があったからだと考えています。民主主義が確立されていない遅れた国に、早すぎた社会主義。これがその後のソ連の悲劇の原因です。

1990年ベルリンの壁崩壊を迎え、ニセ社会主義諸国の実態が我々の目にも、はっきり見えてきました。ニセ社会主義諸国独裁者達が口にしていた人民の為の正義なんて真っ赤な嘘で、あろうことか、何千万の無実の人間を処刑していた事実に何とも言えない衝撃を受けました。悪名高いポル・ポトも社会主義の旗の下、世紀の大虐殺をやっていたのです。社会主義とは一体何であったのか、激しく怒り、哀しむ日々は今も続いています。

社会主義への情熱は今や全世界的な規模で後退しています。大変残念なことだと思います。社会主義が容易に独裁政治に結びついてしまうのは、国民の中に民主主義がしっかり根づいていないからです。国民の中にしっかりと民主主義が定着してこそ始めて本当の社会主義が可能なのです。もし民主主義が戦前の日本にもきちんと定着していたならば、あの憎むべき軍部ファシズム台頭を国民は絶対に許さなかったでしょう。民主主義は人類史を通じてもっとも基本的な政治思想です。我々日本やヨーロッパのような先進資本主義国家で民主主義がしっかりと根づき本物になった時、我々はあらためて社会主義の素晴らしさに注目し、社会主義を志向していく時代がやって来るでしょう。しかし、それまでに我々が為すべきことは身近に真実の民主主義を根づかせることです。お尋ねします。我々の身近な生活の原点に、民主主義は本当に確立されているのでしょうか。

日本国内何れの企業も管理職は、反共をむねとすべしという風潮が企業風土として根づいています。その中でも反共を頑固に唱えているのは、今やリストラ対象者にされている中高年管理職の方々に多いのは何故でしょうか。中高年管理職は反共=保身とでも考えていらしゃるのではありませんか。しかし最近の若い管理職の中には必ずしもこのような風土に同調しない、勇気ある管理職も登場してきています。彼等は、憲法で保障されている民主主義の精神は、職場でもきちんと確立していくべきだと考えています。憲法で保障されている民主主義の精神を、身近な職場生活の中に、きちんと確立していこうとする若い人々に心より拍手を送ります。私たちは、次世代の貴方達の勇気に絶大な期待を寄せています。頑張って下さい。   (www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/

2003年敗戦記念公開セミナー

どうして戦争をはじめたの?

―「ノー」と言えなかった狂乱の時代―

講師:青木 みか(名古屋女子大学名誉教授)

パネラー:江川 美晴 & 西川 尚武

司会:柳瀬 正之

8月9日(土)14時〜17時 於 名古屋三井ビル北館3階集会室

 

吉田千秋先生の敗戦記念公開セミナー開催の挨拶要旨

真下信一先生が名古屋哲学セミナーを開催されて今年で早28年目になる。毎年8月は敗戦記念セミナーを企画し、皆で戦争を考えることにしてきた。過日テレビを見ていたらイラク戦争の是非を論ずる子ども達は、最初論理だけの空中戦、しかし戦争による人間の痛み、苦しみを実際に知って、あらためて戦争とは何か、論じ方が根本的に変わってきた。生身で感ずること、このことは戦争を考える上で非常に大切なことです。最近の大学生は、政治に余りにも無関心。大学キャンパスには、立て看板ひとつ見られない。これは、文部省が一貫して進めている国立大学法人化と無関係ではない。すでに物言えぬ体制が全国的に出来上がってきている。着々と進められる大学法人化の下で、無力化する大学人。これが現実なのです。このことをしっかり見つめて、我々は如何に闘うべきか、考えなければならない。

 

1)       セミナーは「日本鬼子のおきみやげ」のビデオ放映によって開催された。今なおイペリットの後遺症に苦しむ中国の人々や、旧日本軍が黒竜江省に遺棄し、腐食した毒ガス弾で被害を受ける人々を見て我が軍の犯した残酷な行動に心身の凍る思いであった。

 

2)       シンポジウム「どうして戦争をはじめたの?」では青木みか講師(79歳)が同タイトルの書物を編集、出版した動機を述べた。それは若い人々から「どうして愚かな戦争をはじめたのか動機が理解できない」といわれたことに答えるためであった。

すなわち欽定憲法発布(1889年)以来、わが国では侵略による国威の高揚を目指し、富国強兵の国策と軍国主義が知らぬ間に国民の間に浸透していった。日清、日露戦争から満州事変、日支事変へと進展する一方、治安維持法、国家総動員法により、すべての言論、思想、宗教、出版、集会の自由は奪われ、生活も統制されるに到った。一部の軍人や政治家が国家権力を掌握すると容易にファッシズム体制が出来上がる。政策を批判する者は特高や憲兵に逮捕され投獄される。「ノー」と言えない国民はひたすら「打ちてし止まん」「英米打倒」のスローガンを胸に刻んで生きる外なかったのである。敗戦とともに、悪夢から覚めた我々はあまりにも莫大な犠牲に慄然とした。今日、平和憲法の枠が外されそうな危惧を抱くが、主権在民の憲法は国民の手で守りぬかねばならないと、戦争で夫を亡くした演者は一入強く平和を訴えた。

パネラー江川美晴は「社会人学生の戦争観」というテーマで米国滞在中の体験を語った。彼女(37歳)は、家政学部在学中であるが、今春、研修旅行でカリフォルニア州に2週間ホームスティした。その時たまたま主人公の弟がイラク戦争に出発することになった。暫く同居していた彼との別れにわが身をもぎ取られる思いがしたが、家族の心境は想像できないほど深刻であった。大量破壊兵器も発見されていないイラクへの遠征の大義は何なのか。60年前の日本と同様「聖戦」の語が通用しているが、カリフォルニアでは反ブッシュ!反戦争!の運動は活発である。しかしマスコミはほとんどこれらの実情を取り上げていない。文明は進歩しても武力行使を止めない限り人類の明日に希望を持つことはできないと若人の声を訴えた。

パネラー西川尚武の要旨。歴史を見つめて、実感するのは、イデオロギーとしての資本主義か、社会主義かという議論ではなくて、人類史として最も基本的な政治思想である民主主義を私たちは真に定着させてきたかどうかということ。もし民主主義が戦前の日本にきちんと定着していたならば、あの憎むべきファッシズム台頭を、国民は絶対に許さなかったでしょう。真実の民主主義を確立するには、今何が出来るのか、このことをきちんと自覚し、行動していくことこそ大切ではないか。と訴えた。

 

3)       休憩時間には「命(ヌチ)どう宝―命こそ宝」のビデオで沖縄の現状が放映され、また「アフガン民衆法廷(東海公聴会200376)」や「愛知・高蔵寺弾薬庫に保管されるクラスター爆弾」に関する資料も配布された。

最後に「昔話でなくなった戦争」をテーマに出席者からも多くの意見が寄せられ、昨今忍び寄る戦争の危機に対し、我々はさらに一層警戒の念を強め、2度とあの悲劇を繰りかえしてはならないと決意をあらたにした。

以上