定年後の読書ノート
「子どもと出合う」再読、吉田 章宏 著、岩波書店
11月23日、名古屋哲学セミナー「秋の1泊セミナー」は「日本の教育を考える」がテーマであり、これを機会に本書を再読し子どもと出合う世界とは何かを考えた。結局は自分自身が如何に生きるかが教育の基本であると見えてきた。

「子ども」とは、大人と小供という対比に現れる小供の意味と、両親とその子供たちという対比に現れる子供の意味の2つの意味、すなわち2義的であり、「と」とは、大人が子どもに「一方的」に接し、対面するのではなく「相互的に」「共生的に」に子どもと出会うという世界にこそ、大切な人間としての出会いがあるという主張を盛り込んで「子どもと出会う」という本書のタイトルになっている。

本書では、子どもが苦しんでいる「暗の世界」を語り、その対比としての「明の世界」を自覚していくことによって子どもとの出会いを新たな目で見、新たな心で感じ、新たな頭で考えて欲しいという著者の願いが込められている

本書は、起承転結・凡明暗覚の4幕より構成されている。

1幕、凡の世界。現実の実現によって否定された、黙している無数の可能性を知ると、逆に、現実の意味が明らかになる。日常生活の平和な世界を当然な自明性として享受している我々は、現実の裏に黙している無数の世界があることを忘れてはならない。

2幕、明の世界子どもとは、その子ども時代を生きている一人の人間である。出会いとは一種の奇跡のような出来事であり、大人も子どもと出会うということは、時間と場所の狭い条件においてしか起こらない奇跡的な出来事なのだ。出会いとは、それぞれの自分自身の固有の世界を、それぞれの仕方で豊かに変化させること、それが出会いという機会が持つ素晴らしい意味なのだ。だから子どもと出会うとは、大人の為にも、すごく大きな意味を持っている。

3幕、暗の世界人々がどれほど自分以外の人間を思いやることができるかというのが、社会の文明度をはかる基準である。暗の世界も下位世界のひとつであり、故意に暗の世界を見ようとしないのは良くない。何故なら、子どもは、大人たちの欺瞞を、子どもの仕方で見抜いている。ドストエフスキーが生きた時代は、すなわち「カラマーゾフの兄弟」に描かれた地主に殺される幼児の悲劇の時代では、出来事と言えば、目に見える残酷・悲惨そのものだったようですが、今日の時代の残酷・悲惨とは、直ぐには目に見えないようです。しかし、だからといって、今日の時代には残酷も・悲惨もないなどとはいうことは絶対に正しくない。

それぞれの出来事の善し悪しにかかわる価値判断は、判断をするその人自身の生きられた世界をあらわにします。それは良くないと言い切れるのは、その人の生き方が決める価値判断なのです。

4幕、覚の世界。私達の住む現実の世界はきれいなこと、美しいこと、明るいことばかりでは決してありません。人間はうっかりしていると、他人のことは分っても、自分自身のことはなかなか分らないという拭い難い性質をもっています。知覚、統覚、自覚を更に一層豊かで確かなものにすることによって、人間は「絶望」を超える、「統合」による英知を生むことが出来るのです。「暗の世界」があるからこそ、「明の世界」がますます光り輝くのです。不幸な経験のお陰で平凡な幸せをより深く、かけがえのない幸せとして味あうことが出来るのです。これが人間の経験の奥行きの深さと言うものでしょう。子どもの目に映ったあなた自身、一体どのようなものであるか、ゆっくりと距離と余裕をもって自分を反省し、自分を見つめることがまず大切でしょう。

心で見なくちゃ物事はよく見えない。肝心なことは目に見えないから。

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