定年後の読書ノート
革命の中央アジアーあるジャディードの肖像、小松久男著、東京大学出版会
ジャディードとは20世紀初頭、イスラム改革運動を担った知識人たちをいう。この本は、ブハラにおける、ロシア革命とイスラム改革運動の間で揺れたジャディードの歴史物語。

19世紀、中央アジアウズベキスタンはコーカンド・ブハラ・ヒバ3ハン国からなり、ザラフシャン川水系にあるブハラハン国は農業生産にも恵まれ、ロシアとオスマン帝国の間で、キャラバン貿易を営んでいた。古都ブハラは同じトルコ系ロシアムスリム・タタール商人の定宿サライとして活況し、ロシアとの間では木綿綿花取引きが盛んであった。露英間「グレート・ゲーム」は、この国の近代史を大きく展開する。1857年インド大反乱、1868年ロシア軍サマルカンド攻略・奴隷制度廃止、1867年タシケントにトルキスタン総督府1876年ロシア軍コーカンド・ハン領有、1878年イギリス軍第2次アフガン戦争、1880年西徳二郎トルキスタン観察、と中央アジアは経済的にはロシア、政治的にはオスマン帝国の影響下にあった。

ブハラ・ハンはロシア軍侵攻によりアミール国存在が危ぶまれる中、オスマン帝国に支援を要請。ロシアはザカスピ鉄道により、サマルカンドまで侵攻。1905年日露戦争の日本勝利はロシアに抗するムスリムを高揚。1908年オスマン帝国は青年トルコ革命により専制から立憲制。青年トルコ革命の影響をうけ、中央アジアイスラムにも啓蒙主義が普及。日常的なオスマン・トルコ語とチャガタイ・トルコ語の文章語。汎イスラム主義、汎トルコ主義の危険性を察知したロシア当局の言語運動に対する弾圧。

ブハラ・アミール国ではタタール人による新学校方式普及、ペルシャ語の授業。保守派ウラマーへの闘争。そこに新たにソビエット新政権によるイデオロギー闘争が絡む。

フィトラト(1909〜1938)。ブハラ人、イスタンブルに留学。イスラム改革主義、ムスリムの連帯と反帝国主義を学び、ジャディードの言論活動、新方式学校による教育改革とコーランとハーディス解釈の固定化に攻す。ロシアによる併合の危機と戦う。啓蒙主義作品発表。

トルキスタントの自治、イラン文化圏、中央アジアのトルコ化、トルコ語、

しかしこうした流れは、ブルジョア民族主義者の反革命主義とその後にスターリンから位置づけられて、イスラム改革主義者は粛清の対象となる。

ロシア革命赤軍の力で、タシケント・ボルシェビキ勝利。内部に反アルメニア感情。青年ブハラ人運動とトルキスタンのソビエト政権の同盟。トルキスタンの飢餓。フェルガナ地方のバスチマ運動。ブハラにおけるコレソフ遠征の失敗。内戦と飢餓のトルキスタン。ソビエト政権とバスマチ運動の対決。

フィトラトの反英帝国主義論はレーニンの影響大。日本を含む東方統一構想。スターリンのムスリム人政権参加無視政策は、ムスリムの新政権での位置づけを象徴している。1920年コミンテルン主催バクー会議。東方諸民族大会。大ロシア排外主義との闘争。フィトラトのチャガタイ談話会。幾度にわたるロシアへの妥協的呼び掛け。しかし、スターリンからの徹底した大国主義。大川周明この頃、復興亜細亜の諸問題にて、東方問題注目。

1920年アミール崩壊。7万の赤軍、2万のブハラ軍。しかしブハラ革命ではプロレタリアート参加を欠く。バスマチ運動のゲリラ脅威はその後も続く。

ブハラ人覚醒の契機。ジャヂィードの戦い=ブハラ革命 、フィトラト、言葉と文学。しかしドイツ留学生に対するスターリンの弾圧。1924年ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、民族的境界画定。1927年ラテン文字採用。フィトラトに対するスターリン派バイブラトフの執拗な攻撃。

1938年10月タシケントにてフィトラト、チョルバン、アブドツラ・カーディリーら銃殺刑。

(この本を読んで実感したこと)レーニンは最後の戦いとして、死の直前までスターリンの民族自治政策の誤りに執拗に抵抗した。スターリンの大国主義が将来社会主義の根底を揺さぶる大問題に発展していく危惧を抱いて、スターリンを糾弾した。

民族自治問題の誤りはグルジアだけでなく、中央アジアに於いてもスターリン大国主義の暴挙は荒れ狂った。中央アジアではイスラム宗教問題と民族ブルジョアジー台頭問題を正しく評価出来なかった。その結果多くの粛清を重ね、今もその歴史的過ちは大きな悔恨を残す。

これは革命の性格論争、すなわち民族ブルジョア革命であるべきか、プロレタリア革命かをきちんと詰める努力をしなかった中央アジア革命路線の誤りが最初にあった為と考えたい。

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