定年後の読書ノート
東海道53次、岡本かの子著、現代紀行文学全集
旅は人生を静かに過去の煙の中に消していく。

岡本かの子が本作品を雑誌「新日本」に発表したのは、昭和13年。舞台は大正10年前後。岡本かの子の父は有職故実家であり、若くして妻を亡くし、寂しい父娘の関係だった。一高・東大時代から、我が家に出入りしていた主人(岡本一平氏)はやがて養子縁組みで結ばれることになった。婚前2人は、始めて東海道丸子から箱根峠越えの旅に出たことがあった。

まだ当時はすべてが静かで、のんびりしていた。丸子の名物ととろ汁をいただき、銀閣寺の庭を模した連歌師の庵を訪ね、峠の旧道を上っていった。通りかかった列車の煙が新時代の息ぶきを感じさせた。峠の茶屋は昔のままだった。たまたま茶屋で主人の友人作楽井さんに出合った。作楽井さんは、東海道の旅に魅せられ、俗界を忘れてしまった趣味人の一人だった。

曰く「この東海道といふものは山や川や海がうまく配置され、それに宿々がいい具合な距離に在って、景色からいっても旅の面白味からいっても滅多に無い道筋です。自分は東海道53次が出来て300年、この間幾百万の人間が、旅の寂しさやそれぞれの思いを、街道の土や松並木、宿々の壁に染込ませてきた。その味が、自分のような情味の脆い人間をまいらせるのだろうと思います」と。

結婚後も主人と東海道を旅行する機会には何度か恵まれた。

岡崎では藤吉郎の矢作の橋を見物し、その後知立の町外れにある八つ橋の古跡を訪ねた。大根の花が咲いているころだった。やや湿地がかった平野で、田圃と多少の高低のある澤地がだるく入り交じっていた。畦川が流れていて、濁った水に一枚の板橋がかかっていた。悲しいくらい周囲には目を遮るものはなかった。やや高い堤の上に刈り込まれた松並木が見えるだけだった。

三河と美濃の国境だという境橋を渡って、道は段々と丘陵地に入り、この辺が桶狭間の古戦場だという田圃みちを通った。戦場にしては案外狭く感じた。

そして20年が過ぎた。子ども達にも恵まれた。岡本太郎氏は岡本かの子氏の子どもの一人だと聞いている。岡本夫婦は名古屋のホテルで作楽井氏の息子小松技師という人の訪問を受ける。国鉄技師小松氏は東海道53次観光事業を将来夢みたいという。その節は是非お力を貸して下さいとの挨拶。そして岡本夫婦は伊勢路を汽車で走る。平凡に過ごした半生20年を思い、人生に脈をうつものを感じ、作楽井氏との交友もその脈のひとつのような気がするのを感じつつ列車は伊勢路を走った。

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