定年後の読書ノート
三四郎の乗った汽車―江戸東京ライブラリー5―、武田信明著、教育出版社
歴史秘話を次々と綴った興味深い、あたかも司馬遼太郎氏の街道をゆく、明治江戸版。

江戸時代の出版物といえば精々千冊どまりだった。1866年〜1897年福沢諭吉の「西洋事情」は計25万冊、1872年〜1875年「学問のすすめ」は20万冊が出版されたという。明治の人々が西洋の衝撃をまともに受けたのは、黒船来日の姿ではなく、まず書物からだった。人々はこぞって新知識を求めたのは、書物だった。

「西洋事情」が世に受けたのは、その口絵であり、図像だった。人々は世界を先ず図像から知った。しかし、西洋事情を始めて日本に紹介した本は、福沢諭吉の「西洋事情」が最初ではなかった。実は浜田竜蔵の「漂流記」は、1863年、アメリカを口絵入りで紹介した。浜口竜蔵は、1850年遠州灘で暴風雨に遭遇、2ヶ月の漂流の後、アメリカ商船に救助され、以後アメリカ人として生涯を終えた最初の日本人となった。

浜田竜蔵は多くの日本人に影響を与えた。坂本竜馬を浜田竜蔵に紹介したのは、木戸孝充であり、伊藤博文、井上薫、渋沢栄一、五代友厚、そして浜田竜蔵と共に日本最初の新聞「海外新聞」を発行した岸田吟香等は、浜田竜蔵と交友関係があった。

岸田吟香は画家岸田劉生の父親である。彼はある日、横浜でヘボン氏に目の治療を受け、見事眼病が完治したのを機会に、岸田吟香とヘボン氏の交友が始る。2人は日本ではじめての和英・英和辞典を編纂する。しかし、いざ印刷という段階になると、日本には適切な印刷機がない。2人は上海・美華書館に出かけ、ここではじめて、「和英語林集成」を完成する。初版の和英2万語、英和1万語。

夏目漱石は作品の中に鉄道を多く書いている。「坊ちゃん」「三四郎」「こころ」「草枕」。当時日本では鉄道自殺が大きな社会問題化しつつあった。「三四郎」の中にも、若い女が鉄道自殺する直前に交わした言葉を、三四郎が耳にする場面がある。

明治初期、「学制」直後の小学校は新時代に相応しく、西洋建築が見られる建築物としてもてはやされた。人々は自己と西洋が直接ふれる機会が学校にあった。自分のコドモを学校に通わせる者も、そうでない者も、学校建設への関与は、西洋に触れる満足を与えた。

長野松本の開智学校(1873)、長野佐久の中込小学校(1875)、山梨増穂の「つきよね学校」(1876)、福井三国の「龍翔小学校」(1879)、これらはすべて「学制」公布10年以内に建てられた小学校ばかりである。

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