定年後の読書ノートより
日本民族=文化の源流と日本国家の形成、対談と討議、岡正雄、八幡一郎、江上波夫、石田栄一郎、雑誌「民族学研究」第13巻第3号、
江上波夫氏は「騎馬民族国家」(中公新書)で、こう書いている。

私は、1948年5月、岡正雄、八幡一郎、石田栄一郎の3氏と「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という題で座談会をもち、そこで日本国家の起源が、東北アジアの騎馬民族の日本征服にあるとの説を提起して以来現在まで、このいわゆる「騎馬民族説=日本国家の征服王朝論」を拡充・発展させてきていると。

そこで、先週名古屋市立鶴舞図書館に出かけ、「民族学研究」の原典(70ページ)をコピー、詳細に読み込んでみた。この座談会記録は、当時の日本の民族学最高のメンバーが3日間、日本民族の形成を論議したものであり、一部にはアメリカ占領軍の配慮で岡氏のドイツ時代の文献を取り寄せることができた等いかにも終戦直後の世相も記述されている。当時は戦後間もなく、左翼方面からの日本古代史究明が盛んで、階級とか階級闘争という視点での論戦がにぎあっており、この座談会に集まった本来保守的な歴史学者陣は、こうした日本歴史界の潮流に対し、ひとつの防衛的挑戦というような意味もあったようだ。この座談会の内容が非常に面白いので、江上氏の発言をそのまま原文より引用する。

江上波夫氏曰く。

大陸北方系騎馬民族の1派が南鮮の倭人の地(加羅・弁韓)を飛び石として、倭人の本拠たる日本に渡来してきた。その騎馬民族の中心勢力をなしたのが天皇氏で、その日本渡来は西暦4世紀前半頃であった。そうして4世紀末から5世紀初めにはすでに天皇氏の大和朝廷が強大な王権を以って近畿に確立していた。天皇氏を中心として、大伴、物部、蘇我諸氏の連合なる大陸北方系騎馬民族の日本渡来から近畿進出までの期間は、大体1世紀足らずと推察して間違いなかろう

近畿を目指した理由は、そこが弥生式文化時代から前期古墳時代に倭人の大根拠地であり、日本の中心をなしていたからであり、そこの占領が日本の征服に不可欠の要件であった。それに成功して、ここに大和朝廷が始められ、天皇氏がその中心勢力としてはっきりと歴史に浮かび上がってきたのです。天皇氏は、日本に渡来してきた大陸系騎馬民族の中心勢力として、一種の軍事的な氏族連合体を形成し、天皇氏は総統の位置を独占し、これを世襲し、ここに天皇氏の大和朝廷が確立した。それは恐らく崇神天皇の頃であろう。

応神・仁徳天皇の頃には大和朝廷の権力はすでに絶大なものになり、大陸的な土木工事の遂行は、征服王朝の、被征服者倭人に対する支配権の威圧的な記念碑にほかならない。

大和朝廷は確かに騎馬民族的であり、また征服王朝的であり、その統治の仕方も、鮮卑しや契丹や蒙古や女真の征服王朝のそれと一脈通ずるものがある。

そして当時朝鮮半島や大陸から日本に続々と渡来人が渡来したこと自体が、大和朝廷の主権者が彼等と文化的にも血縁的にも比較的親縁な間柄の民族であったことを暗示するものではあるまいか

私(江上波夫氏)は日本を占領支配した大陸北方系騎馬民族とは具体的に如何なる民族であるかという問題について確たる返事は出来ないが、ただ朝鮮に南下した大陸北方系民族が、高句麗にしても、夫余にしても、穢にしても、いずれも満州に原住したツングース系統と考えられているので、朝鮮を南下して、さらに日本まで渡来した大陸北方系騎馬民族もやはりそれらと同類のツングース系統と見て大過ないものと思う。

歴史全般を見渡してみても、外敵の圧迫もないときに、定着農耕民自身の盛り上る力で強大な国家を作るような例は極めて稀である。ゲルマン民族の大移動は3世紀〜5世紀。この時期に西欧国家は誕生している。同時期、朝鮮や日本の国家の成立の動機に民族移動が大きく寄与したことは否めない。

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