定年後の読書ノート
過去の克服―ヒトラー後のドイツ、石田勇治著、白水社
「新しい歴史教科書(扶桑社)」や小泉首相靖国神社参拝問題等をいまだ近隣諸国と未解決なままにしている日本には、東アジアの未来像を描く資格はないと国際的に糾弾されている。

一方ナチ不法の実態を精確に把握することを、戦後ドイツの民主主義出発点としてきたドイツ「過去の克服」は、その背景に国際世論に敏感に対応という特質を持っているのに対し、戦後米国一辺倒で周辺諸国の声に十分な対応を怠ってきた日本にとって、戦後ドイツの進み方は今こそ謙虚に学ばねばならない思う。

この本では、何故戦後ドイツでは「過去の克服」が成功できたかを追求している。ドイツにも、もちろんのこと、日本以上に極右保守勢力が残存し、一方では東西ドイツ分裂という歴史的宿命に苦しみ、そうした条件の中で、過去の克服を勝ち取らねばならなかった。そこには、国際的な大きな世論が常にあったことが、日本とドイツの大きな違いを生んだと自分はこの本を読んで理解した。そして、冷戦構造としては、ソ連社会主義は相変わらず民衆の未来の光明ではあり得なかったことをここでも再認識した。

ドイツの歴史は先ず、何故ナチス・ヒトラーが短期間に国家権力を握り、独裁政治を敢行できたかから学ばねばならない。

1933/1月;ヒトラー首相に任命。1933/2月;国会議事堂放火事件によりドイツ共産党締め出し。1933/3月;ナチス党国政選挙で圧勝。国会の抜きの全権委任法成立。1933/4月;公務員からユダヤ人一掃。1933/5月;労働組合解散。1934/8月;ヒンデンブルク死去、大統領職廃止、首相と大統領を兼任するヒトラー総督制、ヒトラーはユダヤ人の国外退去を進めた。1938年しかしアメリカをはじめ連合国諸国はユダヤ人受け入れを拒否した。

ヒトラーはアメリカ社会がナチスを批判できない事情を見抜き、一気にユダヤ人弾圧政策を過激化した。1938年ドイツ人外交官がユダヤ少年に射殺された事件を口実に、ゲッペルスは「帝国水晶の夜」と称される報復行動・集団暴行を決行した。ヒトラーの外交的成功に満足した民衆は、内政上の後退に目をつむった。ヒトラーは外交の天才・秩序の回復の雄であった。体制に異議を主張するものは居なくなった。1939年ユダヤ人企業の没収が始まり、8万人がドイツを去った。ホローコストの役割の先頭に立ったのは親衛隊SSだった。親衛隊イデオロギーは人種主義であった。安楽死作戦がユダヤ人絶滅政策にすりかわった。

1939年制圧したポーランドの250万人ユダヤ人処置は緊急問題となった。マダカスカル島にユダヤ人移送計画はイギリス海上封鎖で不可能となった。独ソ戦での50万人のユダヤ人虐殺はホローコストの始まりだった。1941年ヒトラーは大量ガス殺戮装置の絶滅収容所建設を指示した。

終戦時約800万人のナチ党員がいた。戦後、非ナチ化に一番熱心に取り組んだのはアメリカだった。しかし非ナチ化は難しかった、ドイツ側の不満は非ナチ化政策はドイツ再建の阻害になっているとの批判だった。

東ドイツ側の非ナチ化は亡命ドイツ共産党員が主になった。しかし非ナチ化=社会主義化=ソ連化となっていが、ソ連軍のベルリン解放時におけるレイプは11万人といわれ、反ソの感情は戦後長くドイツ人の被害者意識と結びつき、反ソ感情に結びついた。

ニュルンベルク裁判は、公正であると評価されている。哲学者ヤスパースは、ドイツ人1人1人が罪を認めよと主張した。ナチ暴力被害に対する補償政策は戦後ドイツの「過去の克服」の主要な柱である。一方ソ連は東ドイツから最大限の賠償を取りたてた。

ホローコスト生き残りのユダヤ人帰国が進められたが、ポーランド国内では、帰国ユダヤ人に対する集団暴行事件がおきている。戦後こうしたユダヤ人迫害から東欧のユダヤ人は大挙してドイツに流入した。人種主義イデオロギーの残存は、戦後のユダヤ人への偏見を再生産し、第2の反ユダヤ主義を生んでいる。

1949年ドイツ基本法では、戦争に対する辛辣な反省がある。初代連邦首相アデナウワーは、反ナチ民主主義を国内外にアピールしたが、旧ナチ派復権により民主主義の規範つくりは座礁した。アデナウワーの「過去の克服」には幾つかの限界性がある。1950年冷戦の激化に伴い、ドイツは再軍備を始めた。再軍備に際しては、戦犯の恩赦は必須となった。戦犯の恩赦と旧ドイツ国防軍の復権の結果、ナチの反共主義は復活し、独ソ戦は、ヨーロッパ文明を野蛮から守る闘いであったとする声が肯定論が容易に国民に受け入れられた。

1951年連合軍「人道に対する罪」適用によるナチ犯罪の追及は終った。旧ナチ派社会復帰は進み、旧ナチエリート釈放者の英雄視化が始った。ネオナチ勢力が台頭した。全体主義を放置出来ないとするアデナウワーの政策は、ネオナチ党とドイツ共産党を一緒にした非合法化がなされた。ドイツ再軍備化は旧軍指導者の復活を容易にした。アデナウワーは一方では、ユダヤ人補償問題に積極的であった。

東ドイツでも、非ナチ化は不人気政策であった。スターリンのユダヤ人粛清の影響により、ユダヤ人擁護の社会的空気は無くなった。西ドイツのめざましい経済復興、アデナウワーの主張は「過去の臭いを嗅ぎ回るのはよそう」だった。人々は豊かさを享受した。

「アンネの日記」や「夜と霧」への関心はあったが、ナチを歴史的に研究する雰囲気はなかった。ナチ時代を直視しない社会的ムードが長くつづいた。アイヒマン裁判はアデナウワーとナチとの関係を明らかにし、曖昧なナチ決着に関し、若い世代からの批判を呼びさました。国際世論も、非ナチ化であいまいな西ドイツ批判の声が強まった。再び過去と向き合う必要性を悟った人々が増えてきた。ナチエリート残留が目立った司法官僚への批判も高まった。しかしこうした東ドイツからのナチ復活の突き上げ背景には、東ドイツの政治的経済的停滞があり、国民の目をそらそうとしたものだった。

アイヒマン裁判をきっかけに、国内外でナチ犯罪の時効問題が論議された。社会民主党ブラント首相は、西ドイツの政治と社会を大きく変えた。「もっと民主主義を!」。学生運動はフランクフルト学派の批判理論を学び、権力に居座る旧ナチエリートを糾弾した。

ブラント自身の反ナチ闘士としての経歴は、東欧諸国の好感を得た。しかしキリスト教社会同盟は、ブラントを売国奴とののしった。ブラントはワルシャワーのゲットーで、過去のナチの残虐をわびてひざまづいた。TV「ホローコスト」の放映は、あらためて、ナチ時代の過去と取り組む契機の一つとなった。青少年達の歴史認識がかわった。1979年ナチ犯罪の時効廃止を決めた。ナチズムを経験した世代が現役を退き、ナチも戦争も知らない戦後世代が社会の多数派を占めるようになった。議論の焦点は、ナチ時代の歴史認識に変った。

親ドイツ的なアラブ諸国の関係を優先するドイツにとって、イスラエルとの国交樹立は容易ではなかった。経済は外交に優先した。1965年西ドイツはイスラエルと国交樹立した。アラブ諸国は相次いで西ドイツとの国交断絶した。1982年コール首相は歴史政策を展開しドイツ国民のアイデンティティを求めた。東西ドイツ交流が急増した。「68年世代」台頭は価値の多様化を持ち込んだ。環境保護、反核、人権擁護が日常生活に根ざした。1980年登場の緑の党は「新しい社会運動」として反政党的政治運動だった。

1985年戦争終結40周年にて、ウィツゼッカー大統領は歴史的演説を行った。「罪の有無、老若いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。全員が過去のもたらした帰結に関わっており、その責任をおっています」「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目になります」

冷戦の終結は環境を一変させた。これまで棚上げされてきた戦後処理の最終的な解決が求められた。ナチ時代の過去からの解放が一層求められている。強制労働犠牲者の補償は、アメリカと東ヨーロッパにおける経済的利益とのからみから実現しつつある。スイスは金融的にナチスを支えたという事実が明らかになってきた。スイスの不誠実な態度に、ユダヤ人側のボイコット運動が始った。ナチ略奪金塊問題はまだ未解決のままである。

ポーランドにおける反ユダヤ主義が明らかにされている。フォード社、IBMのナチ・ドイツとの関係がアメリカで問われている。オーストリアはナチ以上にナチ的な国家であった。しかしオーストリアは被害者としての立場を主張し加害者としてオーストリアには不誠実である。ワルトハイム大統領はナチ協力者であるとのアメリカユダヤ人協会の警告も聞かず、国民は大統領を当選させた。

2001年1月、アウシュビッツ解放50周年を記念した、ストックホルム宣言を採択し、ホローコストが文明の根幹を脅かす重大な挑戦であったことを確認し、その普遍的意味合いに警鐘を鳴らした。ホローコストは人類共通の記憶の中に位置づけるべきであるとし、アウシュビッツの嘘を吹聴するネオナチの宣伝に対し、一致団結して敢然と立ち向うことを表明した。

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