定年後の読書ノート
記憶すること・記録すること、香月洋一郎著、吉川弘文館
著者は1972年一橋大卒、日本常民文化研究所所員。戦争体験者の語る「事実」の本質とは何か。民族学「聞き書き」の立場より、その内に持つ曖昧さとその可能性について考察する。最近中高年の間で普及している「自分史」もこうした戦争体験者の「事実」と共通する人生の技が見えていて、著者の言葉はそれだけに重みを持つ。

人は自分に起こったすべてのことをありのままに記憶できるものではない。記憶され伝えられていくのは己にとってなんらかの意味で切実であり必要とされることのみになろう。あまりに痛切なことは、自分あるいは自分達にとって都合の良い形に再生してーあるいは結果として再生されてー伝えられる

「都合の良い」とは、存続していく自分達やそのあとを継いでいく人々に対しての賢明な配慮の結果を指している。多くの生は強靭な意志のもとにではなく、自分の弱さに向き合い、不安を積み重ねての自己確認の軌跡でもあろう。そのなかで、人は自分に関わる出来事を意味付けながら生きていくのだろうか。出来事が起こり続ける以上、意味付けする足場もまた動き続ける。そしてその軌跡の中から時代性や社会性といった概念が発見されている。

体験を言語によって表現し、それを活字化していくという作業は、疑問を持たぬ限りはごく自然に行ない得ることでもある。近代的な知は固定化を求める。それは時には脅迫に近い勢いを持つ。だからと言って固定化し得るもの、し易いもののみが、伝えられてきた知の本性ではない。

記憶はそれ自体、あくまでその人の内にその人だけのものとして在る。時の流れはそれを風化させ、おそらくはなにか、別の枠組みを与える。記憶は枠組みとして客体化され、伝え易いものになる。記録化とはそうしたものだ。

かってその人達は自己確認を切実に求めていた。今、自分がここに生きているということの根拠を模索していた。己の内面と外の動きとをどう考えれば一致することになるのか、深いところであがいていたように思う。かって自分の内部をもてあまし、かといって外の世界になじまず、沈黙によってそのことを示していた人達は、その2者の調和点を見つけ人生の位置づけに納得したというのだろうか。

これらのことは戦争という不条理への懐疑や批判といった表現の中に収め得るものなのかも知れないが、そう言い換えたとたんになにか大切なものが抜け落ちてしまうような気がする。体験の概念化や一般化など許さない自己の体験に根差したこだわりこそがその本質だったように思える。

「天皇制ファシズム」という表現発想での戦争批判に対して反発や冷ややかな対応を示していたのもこの人達であり、日教組や共産党にたいして生理的といっていいほどの反発姿勢をみせていたのも、この人達だった。この人達、語れることよりも語れない世界、語りようのない世界の中で根深い問題をかかえてきた。

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