定年後の読書ノートより
カール・マルクスーその人と思想、真下信一、NHKラジオ
1977年3月NHKラジオ「文化シリーズ」で4回にわたって放送されたもの。マルクスを生誕から65歳の生涯にわたって、順に語られている。

マルクスは17歳ギムナジウム卒業論文に「職業選択にさいしての1青年の考察」という作文をまとめている。そこにはこんなことが書かれている。「歴史が最も偉大な人間たちと呼んでいるのは、社会の人のためにつくすことによって、自分自身をりっぱにした人のことであり、人々の経験が最も幸福な人間としてたたえているのは、たくさんの人々を幸福にした人達のことである。われわれの幸福は万人に属し、我々の仕事は静かに音も無く、しかし永久に影響を及ぼしつつ生き続け、そして我々の亡骸は気高い人々の熱い涙にぬらされる」。真下先生曰く、人は口先だけなら、どんな立派なことでも書ける。しかしその後のマルクスの生き方は、後光のようになって若き少年の文章の一字一句照らし出している。

真下先生がマルクス主義に関心を持ったのは、1929年大学院の頃。マルクスのどの論文から読み始めようかと相談したところ、戸坂潤は、「もちろんマルクスの最初の学位論文からやるべきだ」と主張、「デモクリストとエピクロスとの自然哲学の差異」から始めた。多少とも腰をすえて1人の大きな思想家を研究しようという場合には、なんといってもはじめから順を追ってその人のものを読んでいかねばならない。学問はインスタントにやれるものではない、ダイジェストでは駄目だ、そういった学問する者のとるべき心掛け、研究精神の徹底性のようなものを戸坂潤のことばのうちに感じとった

認識における実践の意義を重視するマルクスの唯物論を理解するためには、マルクス以前の観念論を知らねばなりません。マルクスは人間のこの主体的な側面を、カント、フィフティ、ヘーゲルと続くいわゆる「ドイツ古典哲学」から学んだ。観念論は精神とそのはたらきを一切のものの根本におくわけです。観念論はその点、主体性の哲学、活動の哲学としてすぐれているのです。だからマルクスも主体性、活動的な側面は、唯物論に対立しながら、観念論によって展開されてきたと述べています。しかし、なんといてもその観念論の考える実践というのは、本質的に精神的な実践、精神のはたらきのことなのであって、したがってそれは、現実的な、感性的な活動というものを正しく、まともに評価することは出来ない。マルクスは、フォイエルバッハの唯物論をも含めて従来の唯物論的な思想から、客観的、物質的条件が精神的・観念的な一切のものの在り方を究極において決めているということを学びとりました。と同時にまた、観念論、ことに「自由の哲学」といわれるカント、フィヒテ、ヘーゲルの「古典ドイツ哲学」からは、主体性あるいは人間的自由、あるいは実践活動といったものの重要な意義を学びとったわけで、その点から申しまして、マルクスの唯物論哲学の根本原理はなにか、それをひとことで言えと問われるならば、私は、それは、「感性的人間的活動」であると答えてまちがいないとおもうのです。

マルクスの哲学を真下先生の如く、人間の精神として、味わい深く、かつ観念論と唯物論の架け橋がどこにあるか、判り易く解かれたお話は今まで他の人の論文ではお目にかかったことがない。さすが、京大哲学と東大哲学の統一をここに見る思いがする。

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