定年後の読書ノートより

ある精神の軌跡、水田 洋 著、現代教養文庫

 

お詫び

この読後感の一部に、自分は水田洋先生の奥様(水田珠枝先生)がアルツハイマー病で水田洋先生は随分ご苦労なさっていると事実無根の内容を書いておりました。これはしんぶん赤旗投書欄で拝読した、同姓同名の水田洋様とおっしゃる老人の投書を、私の早とちりで水田洋先生ご自身の私事と読み違いした誤解でした。私の誤解は水田珠枝先生ご自身からのご指摘で明確になり、私は水田先生ご夫妻を始め、関係者の方々に大変ご迷惑、ご不快なお気持ちを与えてしまったことに気付き、ここに心より深くお詫び申し上げます。どうぞお許し下さい。

                  2007年6月12日  西川尚武

 

 

 

著名人500人が寄せた「1冊の本」(朝日新聞)という読み物がある。ここに水田洋先生は1938年(昭和13年)古本屋で見つけたというマルクス「ユダヤ人問題を論ず」から受けた強烈な衝撃を書いておられる。

暗い谷間とよばれる時代の暗雲のもとで、南京陥落のちょうちん行列が鬼火のようにゆれ動いていたあの頃、自分は、自分をとりかこむ重苦しい天皇制社会からの人間解放を求めて、次第にマルクスを読むようになっていたと水田先生は書いておられる。「ユダヤ人問題を論ず」の難解さにへきえきしながら、しかしこの論文を読み終えた時、暗黒の荒野に稲光がひらめき、くっきりとあたりをてらしたような感動を覚えたと水田氏は書いておられる。

青年マルクスがこの「ユダヤ人問題を論ず」で論じているのは、近代国家における人間解放の問題である。

近代的人間の解放は、宗教や経済を各個人の私事として、国家権力による直接的統制から解放したのだが、それは人間を国家公民と市民(私人)とに分裂させる

そうなると、市民としての人間は、個人的で現実的な人間ではあるが、人間生活の共同性からきりはなされて、相互に競争的敵対的な状態におかれ、他方で国家公民としての人間、あるいは国家そのものは、人間本来の姿である共同性を、ただ観念として強調するにすぎなくなる。

現実の人間はばらばらで、共同性の方はぬけがらとして国家の手にのこる。しかもこのぬけがらが、公共性や愛国心の名において、かっての宗教とおなじ現実の人間を支配しようとするからである。こうして市民と公民に分裂した人間は、この分裂を克服しないかぎり、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、人間の解放を達成しえない。とマルクスの考えをまとめておられる。

実は、この「ユダヤ人問題を論ず」は、自分もかって手にしたことはあるが、あまりにも難解な論文でここまで読み解くことは出来なかったし、もしここまで読み解くことが出来れば、この論文に書いてあることは、水田先生が言われるように、ものすごい衝撃的な内容だなと水田先生の読後感を読んでそう思った。

戦前の苦悩の中でここまで読み説いた水田先生の思索力と読解力に強い憧れをかねがね持っていたが、水田氏との接点はそれ以後、残念ながら何もない。昭和13年、氏は一橋大学新聞編集長として、多くの知識人と積極的に時局を語る機会を持っておられた。当時すでにゼミの高島善哉先生からは「君のあの報告はまったく唯物史観だね」と見抜かれていた。

水田先生は一橋大学予科3年にあって、客観的認識としての科学と主体的態度としての世界観とを、弁証法でいかに統一していくのか深い思索をくりかえしておられた。そうした思索のなまなましい様子が、この「ある精神の軌跡」には、詳細に書き残されてあり、大変興味深い。さて今から45年前、自分がまだ名古屋工業大学の学生であったころ、名古屋大学には、真下真一、水田洋、竹内良知、長谷川正安、畑田重夫先生等、そうそうたる先生方が揃っておられ、愛知県学連としてもいろいろとご教授いただいたことが、今となってはなつかしく思いだされる。

ここをクリックすると目録に戻ります