定年後の読書ノートより
哲学の原風景―古代ギリシャの知恵のことばー荻野弘之著、NHKライブラリー
哲学をどのように始めるか。難しい本を読めば?哲学科に入学すれば?

古代の哲学はわれわれから遠くにある難解で遅れた思想であり、現代の哲学こそが身近で真理に近い思想なのだろうか。

だが現代芸術を考えてみよう。ゴミと見まがうばかりのオブジェや、ピアニストが何もしないで座っているだけの「演奏」、絵のような解読不能の書、不快な騒音と不協和音だけで構成された音楽、観客を舞台に引張り上げる演劇など、はたして現代芸術は判りやすくポピュラーな存在なのだろうか。

われわれに親しい芸術とは、印象派の絵画であり、古典派の交響曲であり、シェイクスピアやチェーホフに代表される新劇の舞台ではないか。

現代芸術の前衛的な実感は、既成の芸術概念を絶えず破壊し、刷新しようとする運動であり、観客が当の作家の抱く芸術観や理念を十分に理解し共有することなしには、鑑賞者にとって意味不明なままにとどまっていることは誰もが認めるところである。

同様に現代の哲学も、ある特定の問題意識を特殊な術語を駆使して動いていくのであって、浅薄なジャーナリズムの宣伝に煽られて最新流行の舶来思想の翻訳本にとびついてみても、こうした試みの前提や問題の状況を正確に理解することなしには、いたずらに難解な用語の行列に戸惑うばかりである。

この点に関してアリストテレスは、「人間は今も昔も、驚くことによって哲学し始めた」という明快な断定を下している。驚きとは単なる累積的な知識の獲得とは次元が違う、真理が我々の魂を射抜くような、知的態度の根本的な変容である。

「哲学」とは、「賢くあろうと乞い願う」というギリシャ語から始った。紀元前4〜5世紀、何かそれまでとは決定的に異なる特殊な知の形態が生まれ、それを現すべく、新たな造語が出来た。ソクラテスは、「知者」ではなく、あくまで「知を愛し、求める者」だったのであり、ソクラテスの生き方そのものが、「哲学」の源流を持つ。

しかし、知を愛し、求めるとは如何なる行為か。何もないところからいきなりソクラテスの問題が始る訳ではない。哲学の揺籃、原風景がここ、哲学史にある。

「ソフィーの世界」が親しみ易い哲学の書として、人々の関心を集めている。

哲学とは、「自分が心の底から本当に知りたいと願っているもの」に関わる。哲学体系の中に、哲学史のはっきりした位置づけを与えたのはヘーゲルが始めてであろう。勿論今日の目からみれば、ヘーゲルには欠陥は多い。哲学の目標は端的な真理である。歴史から学ぶことが出来るのは失敗例を通じての教訓だけである。

哲学は登山であり、哲学史は地図である。地図を無視して勘だけを頼りにしていては遭難する。大切なことは、地図を眺めて空想の登山にふけることではなく、地図を実際に用いて、自分の足で登ることである。

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