定年後の読書ノート
日本の聖と賎―中世篇、野間宏・沖浦和光著、人文書院
目下名古屋哲学セミナーでは、網野善彦先生の「日本とは何か」を勉強している。今月のテーマでは、西日本に集中する被差別部落について、皆で議論する。

本書は、野間さんと沖浦さんの対談形式で全巻貫かれている。密度は極めて濃い研究報告対談である。

沖浦先生曰く、「進歩派も戦前の左翼にしても、賎民問題に真正面から光をあてるという視座はあまり持っていませんでした。どちらかといえば、歴史の陰湿な負の遺産としてしかとらえていなかった。同情的立場から支援することはあっても、被差別民衆それ自体の立場に立ってものを考えるということはなかった。」

野間先生曰く、「1970年代に入ってからは、柳田国男や折口信夫の提出した民俗学的な視座がにわかに注目されるようになった」。

実は網野先生も民俗学的視座からの被差別部落観察である。網野先生は「日本とは何か」で「被差別部落」の東と西の差異についてこう書いている。

「東国と西国の社会、習俗の差異は、「被差別部落」のあり方の違いとしてもはっきり現れている。京都、奈良などの畿内を中心とする西国に、非人、河原者と呼ばれる職能民集団が形成され神人、寄人とよばれる神仏の直属民となり、穢れの清目を職能の一つとして活動していたことにふれたが、、東国の史料には現在のところ、非人も河原細工丸も、ほとんど姿を現さない」

私はいつも実感するのだが、民俗学周辺には深刻な社会問題をパイプをふかしながら、他人事のように、表象的に眺める傾向が強すぎて、金持ちの好事家的印象を受ける。

実は最近名駅裏古本屋で「東日本と西日本」という歴史書を購入した。ここでも、網野先生の書き方は上述の如きであった。

「東西の社会構造の違い、諸地域の差異は、必ずやなんらかの影をおとしているに違いない。被差別部落のあり方、差別の要因等についても、東日本と西日本ではかなりの違いがあることは、すでにある程度まで認められた事実であるが、さらに一層、厳密な研究を必要としている」と。矢張りここでも網野先生、きわめておだやかな筆運びである。

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