定年後の読書ノートより
日本マルクス主義の1つの里程標ー高橋貞樹の思想的軌跡ー、沖浦和光著、雑誌「思想」1977年
高橋貞樹は、1920年代初期の日本マルクス主義の創世期から、革命運動に参加した。そのとき弱冠17歳であった。いらい、つねに国内外の激動の渦中にあって、病躯に鞭打ちながら、運動の最前線にあって苦闘してきた。だが、運動の全面的な後退期に入って、小菅刑務所在獄中に重体となり、ふたたび立つことは出来なかった。わずか30年の、短いが、波乱万丈の生涯だった。暗夜をよぎる流星のように、この世から去っていったが、その短い年月のなかで、かれは精力的に政治活動を遂行し、いくつかの重要な理論的業績を残し、また、まわりの人々に深い思想的影響を与えた。その意味では、短くはあったが、稀に見る充実した一生であった。

この論文は「日本マルクス主義の1つの里程標―高橋貞樹の思想的軌跡―」と題して、岩波書店の雑誌「思想」1976年12月より、1977年6月まで連載したものである。

当時、日本には、27年テーゼ、31年テーゼ、32年テーゼに基く日本が目指す革命構想の論争があり、明治維新の性格づけ及び天皇制絶対主義の性格づけに関して、知識人の間で大きな論争があった。しかし、現在からの視点では、これらは国際共産主義コミンテルンの大きな渦の中で仕組まれた権力闘争の波及であり、これらの全ての論争は、今から総括すれば、結論が先にあり、機械的に図式化された革命路線へのあてはめが、中心的課題であったことが、なにか大きな舞台での演劇でも見ている感がある。

コミンテルンは1928年第6回大会を開催した。議長はブハーリン、しかし当時すでに党内権力はスターリンに掌握されており、スターリンによる背後からの監視のもと、ブハーリン最後の党内闘争だった。

その後、コミンテルンはブハーリンの27年テーゼをブハーリンの息がかかった戦略として否定し、31年テーゼ草案が立案され、風間丈吉によって日本にもたらされた。その草案とは、日本の革命はプロレタリア独裁への直接移行を目指すとするものであり、硬直した運動路線であった。一方コミンテルンそのものは、その後スターリンの御用機関になっていき、ヨーロッパにおけるナチス台頭に有効な戦線を組むこともなく、独ソ不可侵条約へと進んでいく。しかし、日本の知識人は実に真正直に、コミンテルンの草案を指示・命令と解釈し、有効な反戦運動も組織化することも出来ず崩壊していく。

こうした中で、高橋貞樹はどう闘ったかを、沖浦和光氏は綿密に追求していく、

高橋貞樹がその一生を終えたのは、1935年の秋であった。その頃はすでに党内から多くの転向者が続出し、組織網はスパイによってほとんど権力側に握られており、実質的には壊滅状態にあった。しかし、この35年は、国際的にみれば、社会主義、共産主義運動の大きな大転換点であった。35年の秋、コミンテルン第7回大会で、従来の極左セクト主義が軌道修正され、人民戦線戦術への転換が新方針として提唱された。戦争とファッシズムに反対する全民主主義的、ならびに全社会主義的勢力を統一するための人民戦線戦術が採択された。しかし、もうこうした海外からの統一戦線呼び掛けに対し、日本国内では、これを組織化する力はなく、危機的状況は刻々と深刻化していった。しかし、こうしたコミンテルンの対応以前の姿勢に、大きな問題意識を持って、これを糾弾していた高橋貞樹の理論的批判は単に転向者の烙印一つで消し去ることは出来ないというのが、沖浦和光氏のこの論文での主張である。

ここをクリックすると目録に戻ります