定年後の読書ノートより
「ヘーゲル」再読、沢田 章、清水書院
フランス革命は、ドイツ知識人にも大きな衝撃を与えた。ヘーゲルが入学した、チュービンゲン大学は、牧師と教師を養成する神学を主とする大学だった。ヘーゲルはここで、哲学と神学を学んだ。ヘーゲルは大学に入った頃から、キリスト教に対し反感を覚え、批判的になっていた。それに呼応して、ギリシャ宗教と文化に憧れていった。ヘーゲルは、ゆくゆくは牧師になるコースであったが、牧師の道は、とらなかった。ヘーゲルは当時すでにキリスト教に対し、批判的見解を持っていた。

ヘーゲルのめざしたものは、フランス啓蒙主義とは違って、宗教そのものに対する闘争ではなく、むしろキリスト教にかわる、新しい自由の宗教の実現であり、それによる国民生活の調和と統一の達成ということであった。

ヘーゲルは民族の在り方と近代社会の特質を明らかにしようとした。ヘーゲルは、これらの問題を、世界史的な視野で、主として宗教(芸術と道徳を含む)と政治(経済・法律を含む)と歴史の面から追求した。ヘーゲルは民族精神を1人の息子に例え、この息子を育てる父は歴史であり、母は政治であり、教育者は宗教であると言った。

ヘーゲルは純粋な哲学的理論よりも実践的・政治的な問題に強い関心を持っていた。実践理性とは、自己の意思を自己自身で規定する理性であり、カントは理性は感性と、自由は必然と区別・対立するものと考えたが、ヘーゲルは、理性と感性、自由と必然は、国民の生活という現実の場においては、真の宗教の場と同様、たがいに対立をこえて結合し、調和的に統一されなければならないものであった。

宗教は実践理性の要求によって生まれ、宗教は、国民の共同生活に実践的に働きかけるものであり、感性を重んじるものである。ヘーゲルにおいて、理性とは、生きる普遍的なものとして共同性をもち、感性を理性化し、感性に対立するものとはいっても、その対立の根底にあって、感性に優越するものであり、みずから自己を規定して、歴史の中で、現実を通して、自己を実現する主体性を持つものであった。そのような理性(普遍的、共同的、実践的、自己規定的、歴史的、現実的、主体的な理性)を、世界を形成し統一するまでに高めて、哲学の原理として自覚するところにヘーゲルの理性はあった

主体的宗教の主体的原理は、理性的であるとともに、感性的な能力に求めなければならない。この能力が「愛」である。愛において、他人のうちに、自己自身を実現する。

愛は理性に似ており、感性的でありかつ理性的である。愛は感情であって、道徳的感情である。民族宗教は人々の心にうったえるものでなければならない。民族宗教は国民の生活から遊離したものであってはならない。民族宗教は、民族の精神的教養の発展段階に相応する。

ヘーゲルはフランクフルト時代の後半に、若い日の思索と体験の総決算ともいうべき「キリスト教の精神とその運命」という論文―ヘーゲル自身の苦悩にみちた実存的な体験を通して、「愛と運命」の問題を深く追求したものーを書き上げた。そこにおいて、ヘーゲルは始めて、キリスト教の存在の歴史的な意味を肯定するに至る。

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