定年後の読書ノートより
新約聖書―マルコ福音書―前田護郎訳、中央公論社
新約聖書は、歴史(5書)、書簡(21書)預言(1書)よりなる。イエスは書物をあらわさなかった。彼の教えははじめ断片的に伝えられたが、彼の死後次第にまとめられて多くの福音書になった。それらの中から正当な信仰を伝えるものとして、4つが選ばれ、新約聖書のはじめに置かれている。福音書は著者それぞれの性格を反映し、用いられた資料もさまざまであったがゆえに多様性に富むものであるが、全体としてイエスは神の子であるとの信仰から回顧的に彼の言行がまとめられている。4つの福音書をあわせて読むことによって立体的なイエス像を描くことができる。

マルコ福音書を読んで、特に注目したのは、次の点であった。

  1. イエスは奇跡を広言することを禁じた。しかし信者は奇跡を他言し、その度に信者は増えた。なぜ広言することを禁じたのか、判らない。
  2. バリサイ人がヘロデの一味とイエスを亡き者にしようと企むのは、イエスが安息日にもかかわらず、手のなえた人に対して、いやしを与えた姿を発見したからである。イエスは安息日に善をなす、命を救う、これが何故いけないか」と問い詰め、バリサイ人のかたくなな心を嘆いたことが、どうしてバリサイ人を怒らせたか判らない。
  3. 種まきの譬えは、譬えだけで、イエスが何を言おうとしているか、良く理解出来るのに、イエスは別のところで、12人の弟子に、人々には聞く力に応じて譬えで話すが、人が居ないときには、すべてを説き明かされたとのことだが、譬えだけでも十分に理解できるのに、何故ことさらに、弟子にはすべてを説き明かされたのか。
  4. バリサイ人はイエスの弟子が汚い手でパンを食べると言ってたしなめた。イエスは彼等を偽善者といって、神の教えではなく、人の教えを大切にすると嘆く。外から人に入る物は人を汚さない。何故なら厠で出るから。問題は心から出たものが人を汚すと。どうもここは論理の飛躍と論理のすり替えが気になる。
  5. イエスは弟子に説く。先頭を切りたいものは、皆のしんがりで皆のしもべになれと。もう少し厳しい戒めの言葉を何故つきつけないのか。
  6. 金持ちは曰く「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬えは全部守っています」イエス答えて曰く「一つあなたに欠けている。行って持ち物を皆売って貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を得よう」と。金持ちは顔を曇らせ、悲しんで立ち去った。この一節は聖書の中で一番味わうべき箇所だと思うが、どうも、他の本を見てもここに焦点が絞られていないのは何故か。
  7. イスカリオテのユダは、何故イエスを大祭司や学者のところに出かけてイエスを売ったのかその理由が分からない。金を貰ったあと、ユダはいかなる機会にイエスを引きわたそうかと考えていたとあるが、そこまで心理状態を追うなら、何故売るに至ったかを教えても良いではないか。
  8. ピトラの審問で、イエスと殺人犯バラバとを、群衆に向かってどちらを許して欲しいかと問うと、イエスを十字架にかけろと群衆は叫んだ。ピトロはバラバを赦し、イエスを十字架にかけた。この群衆とは、イエスとどんな関係にある群衆なのか、判らない。
  9. 十字架で息を引き取るに際して、イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てですか」と大声で叫んだ。これは受難予告を何度も呟いていたイエスの最後の言葉とも思えない。神に召されたのではないのか。
  10. マタイ福音書ではユダは受け取った金を大祭司と長老に返し、自ら首を吊って死んだとあるが、マルコ福音書では何も記述がないのは、何故か。

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