定年後の読書ノートより
新約聖書―ローマ書他―前田護郎、中央公論社
この度、始めて旧約聖書、新約聖書を丹念に読み通した。正直にいって、聖書とはもっと体系的で、もっと抽象的な、難解そのものの書であろうと遠くから想像していただけに、これほどすらすらと読み終えることが出来るとは意外だった。

経典は難解なりとの印象を持ち続けてきたのは、幼少の頃、親に命じられて、青い経巻なる法華経を読まされたのが原因かも知れない。法華経も、漢文を丹念に読みこなしていけば書いてある内容そのものは、きっと聖書と同じように、理解困難ではなかろう。

観念的世界、哲学的世界の書である聖書が、実はあまりにも散文的、神話的、具体的であるのは、あたかも柳田民俗学がそうである様に、内容を知って改めて驚く。これが聖書から受けた第1印象。

聖書とは何か、そう質問されたら、聖書とは、苦しめられ、傷めつけられた、嘆きの民、イスラエルの民の受難の書であると応える。この書には、強国から苦しめられ、苛め抜かれたイスラエルの民が、武器を持って抵抗の道を選ぶか、強者に対し恭順の道を選ぶか、もしや第3の道が何処に見つけ出せるのかと模索の苦悩が書き込まれている書でもあると応える。

恭順するな、しかし抵抗なんて不可能だ。敵を殺すな、民を愛せ、それでは一体どうするのか、イスラエルの民は結論を見つけた、復讐はすべて神に託そう。この選択こそが聖書の精神となっている。

従ってキリスト教を、和の世界、隣人愛の世界などとニコニコとボランティア精神発揮にはしゃぐ人達を眺めていると、聖書をしっかり読めばそんな甘いものではないと忠告したくなる。神が生まれてくるのは、自己の抵抗が不可能であることを自覚した人達が、抵抗への意志は、神を登場させることで自分自身を自己敗北にまで追いつめなくとも良いと悟った人達の最後の智恵であり、、神を語り、聖書を生み出した道とは、追いつめられた苦悩の中での苦渋の選択だったのだと悟るべきである。

要するに、最初に苦悩があり、弾圧があり、弾圧に抗する人民の抵抗が聖書を生んだ、この大切なストーリをどこまで人は理解して信仰をスタートさせているのか、それはこれからじっと信仰する人達を見つめていけば判ってくるだろう。

最後に、本書のガイダンスを書いている前田護郎先生の、一高時代の思い出。道は2つしかなかった。史的唯物論か聖書かだ。氏は聖書に、愛と死後の平安を予感して、聖書を選んだ。しかし、その結論へたどりつくまでに、聖書には弾圧と抵抗の長い歴史が書き込まれていることを見抜いての結論であったと書いておられるのを読んで、前田先生は良く判っておられると敬服した。

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