定年後の読書ノートより
名画を見る眼、高階 秀爾 、岩波新書
正編「名画を見る眼」が、ルネッサンスから19世紀中葉のマネにいたるまでの西欧絵画の名作を取り上げているのに対し、本書では、その後を受けて、モネからモンドリアンまで、すなわち印象派からフォービズム、キュビズムを経て抽象絵画までの巨匠14人の作品14点を対象として、それぞれの作品の成立の事情やその意味を明らかにしながら、同時に近代絵画の歴史を溯ろうと試みたもの。

モネ「パラソルをさす女」:光の作用を色の世界に置き換えた。対象の固有の色彩を否定して、眼に映ずるままに輝かしい自然を描き出そうとした印象派の画家たちは、そのために従来にはなかった特殊な技法を発明した。絵具を混ぜ合わせると明るさが失われる。ところが虹の七色は混ぜ合わせると最後には白色光になる。印象派の画家達は、混ぜ合わせる色を別々に画面に並列する色彩分割を考え出した。

セザンヌ「温室のなかのセザンヌ夫人」:セザンヌは対象の持っている全ての本質をまず「読み取って」しかる後にそれを画面に実現するという2段階の操作を経て、描きあげた。セザンヌが求めていたのは、眼の前の対象が作る本質的な構造だった。眼は形態を歪め、精神は形態を作る。幾何学的な構成の中に、豊かな現実の感覚を実現し得たという事実こそ、セザンヌの天才だけに許された奇跡と高階さんはいう。

セザンヌは遠近法や明暗法による立体表現には戻ることは出来なかった。画面の2次元性にも服従出来なかった。円錐と円筒と球体は、三角形と長方形と円には還元出来ない。セザンヌは、空間の奥行きも、対象の厚みも、画面の平面性も、全てを同時に実現しようとした。

そしてピカソ「アビニヨンの娘たち」にて、高階さんはこう書いている。キュビズムはセザンヌの教えに従って対象を純粋に造形的なものとして捉え、次いでそれをそれぞれの面に分解し、そして最後にそれを画面の上で再び構成し直すという手順を踏んで画面を作りあげたと。

しかし、絵画という限界を認識したマチス「大きな赤い室内」で高階さんが書かれている一節は、さすがだと感動した。

印象派の画家たちは、あまりにも徹底して写実表現を求めた結果、絵画による写実表現の限界をあからさまにしてしまった。光の表現と空間設定と、その両者を同時に実現することは出来ない。これは絵画本来の宿命なのだ。この宿命を印象派の大実験は明らかにしたのだ。

絵画とはなにか。絵画とは、戦場の馬とか、裸婦とか、その他何等かの対象であるまえに、本質的に、ある一定の秩序で集められた色彩によって覆われた平坦な面である。

フォービズムの画家たちは、画面を単純な2次元の平面に還元すると同時に、現実にはありえないような色彩を思い切って使って、色の持つ表現力を100%利用しようとした。彼等の主張は、現実との結びつきを無視して、色彩は現実とはかかわりなしに、カンバスに登場した。

私自身はこの本を読んで思った。絵画でも、哲学でも一緒だ。本当に自分達と同じ問題意識を持って、周囲を見回していたのは、はるか昔、人類啓発の途上での作品の数々かも知れない。しかし、何故、ギリシャ哲学や、印象派以前の絵画に我々が依然として惹かれているのか、これが問題だ。それは我々が自分自身の内面に、きちんと正直に、しかも自信を持って対面しているからだ。何も現代の絵画や、現代の哲学に、我々は自分を捨てて終局の哲学、終局の絵画と媚びるほど魅力があろうか。我々は、自分に自信をもって、自分が自分にぴったりと思う哲学や、絵画に近づいていけば良いのだ。我々は未開な大地を大切に生きていけば良い。開発されすぎた現代のどこにそれほど、我々を惹き付ける魅力があるというのだ。開発され過ぎた人間のどこに我々は理想の人間像を見つけ出せるだろうか。

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