社会認識の歩み
社会認識の歩み、内田義彦著、岩波新書、1971年
この本は、「資本論の世界」姉妹編として書いたと著者は何度もこの本の中で強調している。本書では、社会科学的認識の結節点を代表するものとして、マキャヴェリ、ホッブス、スミス、ルソーが論じられている。「資本論の世界」では、マルクスと対比する意味で、スミスのネガティブな側面を強調したが、本書ではスミスのポジティブな側面を意識したと著者は書いている。「資本論の世界」程ではないが、しかし矢張り相当精神集中して読まないとやがて著者が何を言おうとしているか、判らなくなる。著者自身もある章の終りにこんな文章を書いて読者に挑戦状を突きつけている。

読者へーこの本は、かなり伏線がはりめぐらしてあるので、精読したい方は、このあたりで「はじめに」からいま一度読み直して下さった方が、あるいは良いかと思います。と。

著者はこの講義を「岩波市民講座」で1971年、丁度「資本論の世界」発行5年後に実施している。その為だろうか、本の読み方に一番力が入っている。

曰く。

本は、まず断片を自分の眼で読み取ることが必要です。(著者はこの話の前にチェーホフの短編「3年」から、ある風景画に感動する若妻の話を引用)。最初に断片、それからだんだんにその本の全体を深く理解し、再解釈してゆくにも、ある断片がものをいって、それをテコにして再解釈が可能になる。

ところが、断片を自分の眼で読むことは一つの賭けです。その賭けを、もともと日本の社会がしにくくしていて、教育がそれをいっそう助長する。自分の眼で本を読まないように本を読む訓練をする。そういうことが否定できないと思うのです。社会科学を離れて一般の本がそう。定まった結論なり、「感想」に向って本を読む。そういう方法、モード、習慣が、社会科学の本にまで持ち込まれて、ここでいっそう、というのは、この領域では芸術作品の場合と違って、眼が直接にものをいうことが少なくなりますから、そこでいよいよ自分の眼の方を疑っちゃうということになって、断片を読むということができない。どうしても断片をはっきりと読むことを、最初の出発点にしなきゃならないかと思います

もちろん断片だけじゃ困るんで、体系を知る。体系的に読むということも必要です。そうしなきゃ社会科学にはならないわけですが、しかし体系的に考えることは、自分の中での体系感覚の成育というものと結び付けながらやらなければならない。そうでないと、体系について知っても、体系的に考えることにはならない。その体系感覚が育ってゆくためにも、まず断片をこの眼でとらえることが必要だと、私は、思うのであります。と。

要するに以上引用した文章そのものが、ひとつの断片だと内田先生はおっしゃる。

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