定年後の読書ノートより
モゴール族探検記、梅棹忠夫著、岩波新書
古本屋を歩いていると、時々思わぬ拾い物にぶち当たることもある。この岩波新書も、目だたない100円コーナにひっそり置かれていた。1956年、昭和31年の発行だ。まだ自分は高校生。日本人には、海外旅行は夢のまた夢であり、兼高かおる世界の旅も始っていなかった。当時「カラコラム」という記録映画が大ヒットしたことを思い出す。あの舞台が、アフガニスタン・京都大学探検隊の作品とは知らなかった。

梅棹先生36歳の作品。先生はその後、民俗学の権威として博物学の重要性を提起、京大カードも開発、最後は国立民族博物館初代館長にご就任、自分も、豊田産業技術記念館創設の際には随分と梅棹先生の本も読んだし、民博研究室にもお邪魔したこともあった。

梅棹先生は、太平洋戦争末期に、いわゆる大興安嶺・内モンゴルの遊牧民の探検調査に参加されたことは有名。実はアフガニスタンには、13世紀ジンギスカン世界征服大遠征の際、多くのモンゴル民族がアフガニスタン中央部に住み着き、今も、ウラルアルタイ語系のモンゴル語がアフガニスタン山奥に残っているという言語学会の注目すべきテーマを、京都大学が1950年、アフガニスタン現地探検を企画したのが、この本のテーマ。

パキスタンからカブール、カンダハールを経てヘラートに入る。アフガニスタンの民族間勢力抗争は当時から複雑そのものであり、梅棹先生、インドにおけるカースト制に代わるものとして、アフガニスタンでは、民族による職能分布さえあるとこの本の中で書いておられる。権力を握るパシュトーン遊牧民。行商人すら常に銃を携帯して村村を巡回する彼等の間には、今も武器を用いた民族間紛争が絶えないと書いておられる。そんなぶっそうな山中で、3ヶ月間も、モンゴル語発掘を丹念に進めていく梅棹先生と山崎先生。

同行した京大山崎忠先生は、この探検後イランで客死している。この本を友人山崎忠氏にささげると梅棹先生は本の最初のページに書き込んでおられる。

この本が発行されてから50年後、イスラムの力は結集し、ソ連覇権主義を破り、アルカイダはビンラディンと共に世界の頭主アメリカに刃を突きつけた。しかし、梅棹先生が、何度もこの本の中で強調しているのは、この国の荒涼のすごさ。

「日本人はなかなかの自然美の探求者であり、風景美に対する鑑識眼は高い。我々は随分奇怪な自然からも、悪魔的、破壊的な美しささえ見出すことを知っている。しかし、この風景はどう見ても日本人向きではない。こんな風景を美に感じ得る民族があるだろうか。これは荒涼というものではない。荒涼というには、あまりにも光があふれすぎている。温度が高すぎる。風景の鑑賞には皮膚の温度感覚が関係する」

このアフガニスタン・カラコラム探検に関しては、1950年の発行として岩波写真文庫に「アフガニスタンの旅」、朝日新聞社に木原均博士の「砂漠と氷河の探検」、カラコラム隊の記録としては、今西錦司博士の「カラコラムー探検の記録」(文芸春秋新社)、藤田・林田隊員の朝日写真ブック「カラコラム」がある。近日図書館でこれらの図書を発見したいと思うが、見つけだせるかどうか。一方、ヒンズークシ隊の方は、山崎先生が客死されたので、結局この岩波新書1冊しか探検記録はない。

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