定年後の読書ノートより
人は何故宗教を必要とするのか、明治学院大学教授、阿満利麿、ちくま新書
著者は京都大学で学び、NHKディレクターを経て、現在明治学院大学で思想史を教えておられる。著者は難解な問題をさりげなく文学的表現で包み込み、宗教問題をエッセイ風にまとめあげている。最初に北杜夫氏が、「死ねばみな無になる」と語られている新聞記事を取り上げ無とはなにかと問い掛ける。人間は意味を求めるが、この世には科学では証明出来ない世界が幾らでもある。死後の世界もその一つ。科学的だから納得し、非科学的だから納得しないと主張するのでは精神の衰えにつながる。夏目漱石は死後の世界に関し、立ち入ることを拒み、解釈を留保している。夏目漱石の深い読書知識を背景にして、この視点は好ましい。志賀直哉は暗夜行路で、大自然への融解という経験を経て、死はもはや恐ろしいものではないとしている。自己を超越した大自然への合一感を志賀直哉は死さえ克服出来るものとして描き出している。井上靖の小説「化石」では、死を宣告された主人公が、残りの人生を如何に生きるか苦悩する。「本当の生きかた」を求めて懸命に生きる主人公。充実した人生があれば、死への恐怖は和らぐと井上靖は見ている。「本当の生き方」とは自己を実現する生き方である。作家丹羽文雄は、人間にはどうすることも出来ない煩悩を生々しく描いている。凡夫救済の道は何か。ここに丹羽文雄は親鸞の説く阿弥陀仏の教えを導いている。丹羽文雄も、そしてこの本の著者も、生家は住職であった。「創唱宗教」の存在を著者は語り始める。絵本「葉っぱのフレディ」では、木から落ちた葉が、始めて観たものは木全体の姿=いのちの大きさであった。死によって始めて、いのちの永遠を見る。感動的な死のとらえ方だ。神谷美恵子さんも書いている。「ありのままの自分を「人間を超えるもの」の前にさらけ出し、それに身を委ねることが大切な生き方だ」と。

死が宗教への踏切板になるのは、死によって鮮明になってくる人間の有限性や、そうした有限性を自覚する場合だと著者は言う。死によって象徴される人間の有限性に関連する問題解決にこそ、宗教の役割があると著者は言う。

以上がこの本の概要紹介だが、自分はこの本を読んで、残念に思ったのは、最近明らかになりつつある遺伝子の生命活動に関し、これを人間の有限性とどう結びつけていくかということが全然書けてない。

自分はいつも考えている。自分も、家内も何れこの世から居なくなる。しかし自分達のいのちは長い人類の祖先から引き継いで、今や次世代の子供達に託した。子供達は子供達の考えで、この永遠の命を次の世代に引き継いでくれるだろ。この無限ないのちの道程に、人間の有限性など、思い上がるなと言い切りたい。もし自分の死が怖いなら、自分の死は無限の祖先の死によって支えられていることを自覚しなさい。死の瞬間の肉体的苦痛が怖いのか。有難いことに現在の医学は、どんどんとこの最後の苦痛すら解放してくれている。

宗教とは何か。人類発生の歴史の中で、自然の脅威、類的存在である自分と共同体との融合がつまずき、孤立していく自分の内面に生まれてくる精神的恐怖感、これらが死への恐怖観念を育てて来た。そして人間は自ら宗教を産み出すことによってこの恐怖からのがれることが出来た。人類の知恵が未熟であった未開社会では、宗教は、臆病な人間達によって作られ、臆病な人間達を救い出してくれた。しかし、人類の知恵は確実に進歩していく。人々はもう宗教の正体をきちんと見つめ、もっと人間らしい生き方をしても良い頃ではないか。

君は、人類という共同体の中に生きている1人の弱い人間である。それだけに君は、君の所属する共同体にもっと寄りかかり共同体と一体感を実感すべきではないか。戦争を憎め。進歩に寄与せよ。現実の生活をもっと自分で納得出来るようにすべきではないか。地域ボランティアでもよい。友人と社会の矛盾について、はっきり声を出して語りあうのでも良い。思い切って自己の政治信条を表明出来るならば、なんて素晴らしいことか。臆病であってはいけない。黙っていてはいけない。貴方のいのちが、次世代の社会を作っていく。宗教がこの世でどれだけ次の社会にむけて大切なことをしていきたか。僕は宗教に仕組まれた巧妙なワナが、国会で時の権力に迎合していくブザマナ姿を見るにつけ、宗教の偽善に怒りを実感する。

今大切なのは、怖さから逃げるのではない。自分につながる社会の為に、君の参加で少しでも歴史的前進が達成されることに君は寄与すべきではないか。それが宗教を克服できる唯一の道だと僕は思う。君はそれでも宗教を必要とするか。

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