オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊(岩波世界歴史講座24)

矢田俊隆著………私の現代史7

第1次世界大戦の結果、ヨーロッパでは3つの帝政が崩壊した。そのうちドイツとロシアでは、国家の輪郭は殆どそのまま残ったが、オーストリア・ハンガリーは国家そのものが解体し、幾多の小国家に分裂してしまった。この国はきわめて複雑な多民族国家であり、崩壊の原因も。この民族構成に求められなければならない。

オーストラリアは10世紀神聖ローマ帝国の東部辺境として設けられ、ドイツ系ハブスブルク王家が、ボヘミア・ハンガリー・ポーランド、ルーマニア等、これら民族を統治してきた。

ハブスブルク王家は超民族的な存在として、それら諸地方の経済資源の相補、軍事的防衛を一体化するのに、有効な存在であった。

しかしドイツ人が支配するこの国の体制は、民族意識の芽生えとともに、動揺をきたし、1848年3月革命により、ウィーン体制の象徴的人物メッテルニッヒが失脚以後、衰退の一路をたどった。1860年代には汎スラブ主義運動の影響により、領内の民族運動は一段と激化した。

当時ハブスブルク帝国には、ドイツ人、マジャール人、チェコ人、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、ポーランド人、ウクライナ人、ルーマニア人、イタリア人が含まれていた。

マジャール人は1867年ハンガリー帝国を設立。スラブ系諸民族の不満は高まっていく。マジャール人はルーマニア人、南スラブ人、スロバギア人に厳しい抑圧的態度で臨み、政府と従属民族の間で、紛争は絶えなかった。

20世紀に入ると、国境外の民族国家が、同系統民族の合体を要求し、ロシアの汎スラブ主義を背景にしたセルビアはこの急先鋒であったが、オーストリア・ハンガリー帝国は先手を打って、セルビア人の多いボスニア・ヘルチェゴビナを併合。これはセルビアに衝撃を与え、反オーストリア運動が激化した。1914年オーストリア皇太子暗殺事件は、こうした背景にある。ハブスブルク王国とドイツ帝国の結びつきは、ドイツ帝国に戦争経過の戦略主導権力を奪われる結果となり、新帝カールの必死の講和工作も実らず、帝国は1919年講和会議開催前に解体、ハブスブルク王家はスイスに亡命し、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。新国家の形成は、他方ではボルシェビキの当地への浸透を結果として排除。民族自決の基本的認識を飛び越したウェルサイユ体制つくりはその後の不安定な国際情勢に結びつき今日の民族紛争の原因にもなっている。

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