定年後の読書ノートより
回想のスメドレー、石垣綾子著、教養文庫、1987年初版、
第2次世界大戦直後の平和、幸福、信頼の小春日和は、差し迫る闇の前触れに過ぎなかった。アグネスはまだ、忍び寄る危険にも気が付かず、中国革命のルポルタージュ「偉大なる道」に取り組んでいた。

民主主義の仮面を被ったアメリカ・ファシズム権力は、なんと巧妙に、忍者の忍び足で迫りきていたことか。或る日突然その恐るべき正体を見せる。

アグネスがその夏雇った秘書は、何故か執拗に客の話に聞き耳を立てていた。彼女の正体こそFBIのスパイであった。或る日突然センセーショナルな新聞報道。幾つかの恐ろしい仕打ち。降りかかる恐怖を逃れ、身を隠す友人達。アグネスを殺したのはアメリカ・マッカーシズムであった。

何十年ぶりに学生時代の読書ノートを開く。当時のアメリカ・ファッシズムに抗し1955年岩波書店が世界中で始めてスメドレー著「偉大なる道」を発行。軍閥下で一度はアヘン患者にもなった朱徳将軍。40歳にしてドイツに学び、そこで若き周恩来に出会う。革命に燃えて、毛沢東と共に紅軍を結成、抗日戦争を闘う朱徳将軍。安保闘争に燃えた当時の自分に「偉大なる道」は大きな感動を与えた。やがてスメドレーこそ、中国で尾崎秀実、リヒアルト・ゾルゲと世紀の大ドラマを演じた一人だと知る。

マッカーシズムに関しては、岩波文庫にルポルタージュ「マッカーシズム」がある。当時のアメリカは冷戦下、反共ヒステリーは突如炎上、自由を謳歌していた知識人を一気に震え上がらせた。しかし、総てはマッカシーの死によって収斂したかの如くに書かれている。本当に、マッカーシズムは過去のものだろうか。事実はこのアメリカ式弾圧方式が、その後「自由世界」でどれほど多くの知識人の「自由と尊厳」を奪ったことか。

アグネスの受けた苦しみは、アメリカ式拷問である。FBIによる、密かな身辺調査、膨大な、長期に及ぶ個人データの蓄積、それらのデータを背景に執拗に迫る機関の査問、罠をかけた幾つかのおとり捜査、デッチあげられていくレッドラベル、センセイショナルな報道、それは守られるべき個人の内的世界を徹底的に暴き出す手法、黒い陰が四六時中私生活を監視し続けていることを本人に気づかさせる脅迫、震え上がる知識人、逃げ隠れる知識人。

しかしファッショ権力は執拗に追いつめてくる。この恐ろしさを徹底的に全米に撒き散らしたマカッシーという無名な一人の国会議員。誰も彼を制止することさえ出来なかったアメリカの民主主義。それはあのスターリン粛清にも通ずる暴虐である。

しかし、この思想弾圧手法が、その後日本民間企業にどれほど大きな影響を及ぼしたか今は誰も語ろうとしない。職場では、会社側とあろうことか御用労組とが一緒になって、目に見えない思想調査を徹底的に行い、膨大な陰のチェックリストが密かに作られていく。暗黒のブラックリストは常に重く、各個人の生涯にのしかかる。この裏の恐怖に良心を持つ若き人々は気付きながら、これを糾弾する勇気を持てない。

セクハラを糾弾する同じ若い人々は、この踏みにじられた民主主義を何故公開の場に明らかにしようとしないのか。民主主義とは思想信条の自由を確保すること、民主主義とはまず憲法で保障された個人の尊厳を守ること、ここから総ては始まる。それには若い人々の勇気が必要なのだ。「回想のスメドレー」には、石垣綾子の生涯をかけた素晴らしい物語が一杯書き込まれている。しかし自分に強烈な印象を与えたのは、矢張り終章のアメリカを悲劇の国としたあのマッカーシズムの恐ろしさである。

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