定年後の読書ノートより
歴史としての20世紀を語るA、加藤周一、NHKテレビーH12/3/29―
サブタイトルとして、戦前、戦後、その連続性。

場面は加藤氏電車の中で、車中の客をしげしげと見つめるところから始る。「南京大虐殺」は誰が殺ったか。今は穏やかな顔をして車中の隣人となっている父親達であり、良人達であった。善良な人間が追い込まれて、本性は悪魔ではないが、結果として悪魔になって、罪もない中国人の母親や子供達を虐殺した。戦争は人間を破壊する。私は戦争を憎む。自分の戦争への怒りは終生忘れない。自分は怒っている。

人間は食欲、性欲のみならず、本能的に環境を知ろうとする本能を持つ。しかし、戦争は人間のこの本能を破壊する。戦後、戦争への怒りは爆発した。友人を殺された怒りは絶対に忘れない。戦中差し障りのない議論を重ねていた戦争協力の御用学者、御用文学者達は「西洋の没落」に対して、「近代の超克」なる議論をやった。しかし日本は経済史的に見れば近代以前であり、議会制民主主義ではなく、天皇制官僚国家であった。憲法には人権が書かれていないばかりか、国民は臣民と称せられ近代以前の状態に置かれていた。戦中、植民地解放は、先ず自分の国の台湾、朝鮮を解放しインドネシア、中国を解放しようとするなら判るが、それを隠して何が近代の超克か。

フランスに留学して、レジスタンスの歴史に強く感動した。ヨーロッパでは、個人の意志が基礎となって、連帯、集団が成立する。日本では集団の圧力で個人が圧殺されて、個人が無い状態で集団として群がっている。集団の意味が日本とヨーロッパでは全然違う。帰国後日本の雑種文化を取り上げ、評論活動を重ねた。雑種の純化は不可能だ。平等主義は、男女同権ひとつを取り上げてももう逆戻りは出来ない。しかし、平等思想は定着しても日本人の個人の自由思想は定着しなかった。戦前の物の感じ方の持続性は今も続いている。戦争背景の文化は否定されることなく続いているのだから、戦争を生み出した文化によって、将来戦争の復活はあり得るし、その文化を許した責任は、同時に将来の戦争に対する責任ともなることを自覚すべきである。

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