定年後の読書ノートより
歴史としての20世紀を語るB、加藤周一、NHKテレビ・H12年3月29日・
東ヨーロッパがソ連社会主義圏から出ることは予想していたが、ソ連そのものが崩壊してしまうとは予想出来なかった。冷戦下入ってくる情報はソ連の脅威を伝えるものばかりであり、ソ連が抱えている国家的弱さについての情報は入って来なかった。ソ連が崩壊したからといって、何も資本主義が優れているなどと決して言えない。ソ連社会主義を社会主義全体に拡大して考えるのは粗雑極まりない考え方だ。

20世紀には、資本主義国家の中に、社会民主主義的な考え方が取り入れられてきていることは、今や社会主義対資本主義という単純な見方ではもう結論づけられない。

ソ連を始め、多くの社会主義国を訪問してきた。40年前チトーのユーゴスラビア連邦を訪問した。そこには多様な民族共存がチトーの力で成功していた。しかしハウスブルク文化は根強く、チトー亡き後、この国は民族紛争が再び火を吹くことは容易に想像出来た。政治家はそんな事情に1991年ナショナリズムをあおった。ナショナリズムをあおられ、民族共存の深い溝を越えられなかった。

1968年プラハの春に湧くチェコを訪れた。ドプチェック第1書記の人気は本物だった。知識人達はスターリン時代には無かった自由の素晴らしさを謳歌していた。もしドプチェックがソ連の社会主義を変えていったならソ連社会主義は今も続いているだろう。

1968年8月20日ソ連戦車はプラハの街を蹂躙した。オーストリアのウィーンでチェコ側の地下放送を聞いた。地下放送はソ連戦車はチェコの意志を踏みにじって侵略してきたと訴えていた。ソ連はチェコの民主化が東欧に広がることを恐れていたのだ。ソ連指導部は改革の東欧への影響を恐れていた。しかしソ連は自国の大衆だけは信じていたようだ。ペレストロイカは、権力の中央集権を見直し、軍需生産を大衆の要求する消費物資へ切り替えていくことを進めようとし、知識人はこれを歓迎した。プラハの春から18年目のことだった。しかし大衆は良くならない経済に白けていた。冷戦下での新たな資源配分、競争原理の導入は無理だった。さらに核軍備競争の負担に耐えられなかった。ソ連の経済は改善されなかった。核兵器こそ冷戦論理の矛盾が生んだアキレス腱だった。核兵器競争によって、冷戦そのものが自己分解した。 冷戦の終結と社会主義の崩壊は直ちに結びつけられない。

20世紀は社会主義が国家の体制として確立した世紀であった。中国は社会主義であるからといってこれを敵視する米国型冷戦的中国観を持ってはならない。

中国革命を推進した中国の国民はアヘン戦争以降幾つかの帝国主義侵略支配に苦しみ、自力で独立を勝ち取った歴史を見つめなければならない。

例え米国は冷戦的中国観であっても、日本は歴史的、心情的、文化的にもっと複雑な中国観を持つべきだ。米国製冷戦から独立して日本は独自の中国観を持つべきだ。日本一国で米国や、EUに対抗出来るものではない。誇大妄想狂はいいかげんにしなければならない。日本は中国、朝鮮と仲良くなり、中国、朝鮮と一緒にやっていける国にならねばならない。

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