定年後の読書ノートより
歴史としての20世紀を語るC、加藤周一、NHKテレビ・H12.3.30
20世紀は戦争を無くすことに失敗した。歴史はナショナリズムそのものは無くすことは出来ないことを示した。ナショナリズムの根源は、個人と同じように、集団もアイデンティティを求めることにある。集団の背景には歴史と文化の違いがある。日本は典型的な民族国家。日本はかって神社をつくって宗教を他国に圧力をかけて押し付けようとした。紛争が起きるのは当然だ。圧力をかけて信仰が可能になるものではない。言葉も同じ。日本語そのものは優れても劣ってもいない。日本=一言語=日本語=一文化=日本民族。日本ではやたら国民という言葉が使われる。Peopleという訳語には民族、これを国民という言葉に訳すのは、日本独特の条件下でのこと。

従って人権はあらゆる人間に不偏であるという思想が日本には無い。フランス語、ドイツ語は国語とは言わない。多国言語なのだ。文学も同じ。フランス文学を国文学とは言わないのに、日本では国語、国文学、国文法という言葉が横行する。しかし、国語とは国が採用している言語であり、国語と国文学とは関係無い。

「日本文学史序説」は、日本語にどこまで普遍性を持つかを追求した作品である。

敗戦で日本の大衆は180度の転換をスラリとやってのけた。鬼畜米英は拝米に簡単に替わった。何故容易に転換が出来たのか。日本人の心はどういう仕掛けになっているか。日本文学史序説を書いていくことによって、日本人の心に迫りたかった。口承文学も取り上げ、文学の幅を広げた。普遍的概念で日本文学をとらえてみたかった。ナショナリズムを一度否定して、日本の文学を再評価したかった。日本固有の精神、やまと心とは何か。説話集を中国原典と日本古典とを比較していくとここにやまと心が見えてくる。技術と物事を処す具体的展開に中国と日本の考え方の差が見えて来る。本居宣長の如き大学者が何故古事記を真実と断定することによって強いナショナリズムを、やすっぽいデマコチックな観念を持ったのか判らない。バルトークがハンガリー心を追求した普遍的姿勢と、本居宣長の古事記世界の特殊性を克服出来なかった経過とは全然違う。

ここにはナショナリズム克服のひとつの鍵がある。日本はいま一部にナショナリズム高揚の傾向があり、一方カタカナ外来語に無性に妥協的である。言葉に対する自信が無いから、日の丸、君が代を強調しようとする精神が湧き起こってくるのかも知れない。もっと言葉にたいする誇りが強ければ、屈折したナショナリズムは出てこなかったのではないか。カタカナ外来語はぼんやりした概念を好む日本人の性格にも合致しているのか知れない。

幕末末期の人富永仲基が言っている。中国人のくせは誇大妄想、インド人のくせは空想夢想、これに対し日本人のくせはものを隠す、秘伝、秘密主義、情報公開法の反対の地盤はこんなところにあるのかな。日本人は言葉の中にもあいまいな表現や、カタカナ外来語を好む。これは独善や偏狭なナショナリズムを隠すことにもつながっている。

文学とは人生の目的を定義する為に必要であり、閉鎖的なナショナリズムを克服する為にも必要である。目的を決めるのが文学とすれば、達成するのが技術だ。しかし科学技術がいくら発展しても目的と手段とを混同してはならない。孔子が牛を助けた話を知っていますか。不幸は国中にあっても、行動に伝るのは情熱があってのことであり、偶然目前に展開する事実に行動せずして、抽象的なことをいくら並べてもそれはしょうがない。要するに人類を愛するとは目前の一人の人を愛さずして何の愛か。孔子もアンゲルプールストも同じ。

1日の中に永遠を見る。1日の中に永遠を見えない人は、永遠は何時までも見えない。1人=人民全体この意識こそ、すなわち目前に展開する世界をこよなく愛する、すべてはここから始るのではないかな。そう、他者が大切だ。他者は1人から始る。

日本、占領下の日本で、後の世の経済大国は想像することも出来なかった。今後この国がどう生きていくか私には判らない。

「この天地の間には、お前の哲学が夢想するよりももっと多くのことがある。」と私は、私自身に向かってつぶやいている。

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