定年後の読書ノートより
「無神論司祭」と宗教、日大石川光一研究論文―「哲学と現代10」
偶然の機会に、「哲学と現代」バックナンバー10号を購入、石川先生のジャン・メリエ研究論文を興味深く拝読した。

18世紀アンシャンレジーム下のフランス農民は過酷な生活に苦しめられていた。この実態を、今に残す資料として、デュポア司祭の「日記」がある。

「農民の生活は涙でそれを表すより他に出来ない」と同情の念を寄せている司祭の視点は第3者、観察者のそれを越えてはいない。しかし、同じ司教でもジャン・メリエは違う。民衆への共感は、農民を苦しめる王侯貴族の専制政治の過酷さを糾弾する怒りへと高まるばかりではなく、王侯貴族と一緒になって民衆をだまし続ける僧侶のペテンにも、もうひとつの憎むべき存在であるとして、農民達に王侯貴族と僧侶を倒せと激しく訴える遺言書を残す。この遺言書は地下文書としてフランス革命に大きな影響を及ぼしていく。

ここで石川先生は、農民の困窮に心を寄せながら生涯神の使徒として生きたデュボア司祭の信仰よりも、自ら神に反旗を翻したメリエの記述にこそ宗教的色彩が色濃く現れているのは何故かと問いかける。

農民を愛する2人の司教、1人は最後まで神を否定せず信仰を持ち続けたデュボア司祭。もう一人の司祭メリエはこともあろうに神を否定し、僧侶を倒せと民衆に訴えた。しかし神を否定したそのメリエにこそ、真の神を見るのは何故だろう。

私はここに極めて明快な弁証法を見る。農民を愛する。故に農民を欺瞞する信仰を否定する。しかし農民への愛情から信仰を否定した心こそ、真の神への信仰に外ならない。

それは信仰が持つ2つの側面、真の信仰と、欺瞞の信仰は全く別物であると見抜くことから始まる。

公明党指導部による権力への迎合により自自公政治はいよいよ憲法改定にまで魔の手を伸ばそうとしている。まさには民衆への裏切りである。しかし依然として信者達は、福祉政策を第1に掲げ、信仰に帰依している指導者達がまさか自分達をだますなどは考えられないと素朴に信じている。

信者達は、権力に迎合している指導部を自分達の問題として激しく糾弾すべきだ。メリエの内部告発に学びなさい。もうひとつの重要なことは、唯物論の立場から、宗教なんて所詮反動に落ち込んでいくと烙印を押しているだけでよいのだろうか。人々の素朴な信仰への心を正確に汲み取り、これを大切に擁護し、否定すべきは指導部の裏切りであり信仰する心ではないことを、素朴な信者達に実感してもらう努力が絶対に欠かせない。

メリエは信仰とは何かを現在にも問い掛けている。

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