映画 誰も知らないを観て  3つの文章をご紹介

名古屋哲学セミナー「つぶやき」 − どん底からの脱出 − 映画ファンブログ

映画 誰も知らない 

名古屋哲学セミナー「つぶやき」(名古屋哲学セミナー9月号編集後記)

映画「誰も知らない」は、東京のど真ん中で実際にあった話。母親に捨てられた幼児四人は、マンションの一室でひっそりと暮らしていた。3歳の妹が死亡、10歳の兄は妹をスーツケースに詰め羽田空港に捨てた。この映画を観て、人々は、母親を非難し、幼児達の不幸に涙した。しかし全ての事件の背景に貧困ありと声を荒げる人は誰もいない。8月号のセミナー通信に「どん底からの脱出」と題して母の思い出話を書いた。貧困に泣き、貧困からの脱出に真剣に生きた36歳の母の後姿は壮絶だった。終戦直後の日本は、誰もが貧しかった。貧しさからの脱出を求め、人々は社会主義に目覚め、生きる目標をこの戦いに捧げた人も多く居た。今も哲学セミナーに集まってくる人々の青春は、そんな思い出が一杯充たされていると思う。しかし、映画「誰も知らない」を観て、多くの人々は、現代人のモラル欠如、家族愛欠如を唱えても、貧困が根底にあるのだと主張する人は誰もいない。何故だろう。もう我々の前に、貧困は切迫した問題ではなくなったのだろうか。学生運動も、労働運動も、昔は貧困脱出への大切な道のひとつだと誰もが信じていた。しかし、社会が豊かになった為なのか、貧困よりももっと大切な問題が身近に一杯ある為なのか、学生運動も、労働運動も、灯が消えて久しい。


どん底からの脱出(名古屋哲学セミナー8月号投稿随筆)

 母はまだ三十六歳の若さだった。父他界の翌日から、五人の幼子を抱え、貧困との闘いが始まった。生後半年にも満たない末弟徳三を背負い、母は町の鉄工所で雑役婦として働き始めた。一日工場の片隅で働きながら、夜は近所の仕立物を請け負い、遅くまで裸電球が点いていた。

姉は中学三年、父他界で突然お嬢様学校「椙山」から近くの中学に転校、卒業後は高校進学を諦め電話交換手になるのだと電電公社に就職内定最終手続きを進めていた。

 私は我が家の食い扶持を減らす為、名古屋市西区で製菓工場を営む伯父の家に住み込み、丁稚小僧として朝早くから夜遅くまで働き中学に通わせてもらうことになった。

 次弟は小学五年、小さな身体で毎朝四時に起きて五キロの道を新聞配達を続けた。

 母は子供達を食べさせる為、一生懸命頑張ったが、絵描きであった父の残した僅かな貯金はいつしか底をつき、遺族年金など勿論無く いよいよ民生委員に相談し生活保護を受けざるを得なくなってきた。

しかし、当時の日本福祉行政では、生活保護を受ける家庭の子女は絶対に高校進学は許るされなかった。勿論その上に、近所からはあの家の子供は生活保護を受けていると常時後ろ指を指され、子供達に萎縮した精神が植え付けられていくことも容易に推定され 母はどうすべきか決断に苦しんでいた。

 或る底冷えのする冬の夜、鉄工所からの帰り道、母の擦り減った下駄が途中で割れてしまった。 

 母は徳三を背負い、冬の寒空の下、裸足で一キロの道を歩いて帰ってきた。母は帰宅するなり隣室に独り閉じこもり ひとしきり声を出して泣いていた。心配する子供達は、そっと障子のスキマから母の様子を伺った。

 やがて母は、心配する子供達の前に「さあ、食事にしよう」と笑顔を作って現れた。青白い母の顔に、涙ではれ上がった真赤な目が忘れられない。

 母はその夜決意した。「雛子、電電公社に就職するのは止めて、高校に進学しなさい」。

晩年母は語った。貧乏人が、貧しさから脱出するには、技術を身につけるか、又は学校に行くしか脱出する道はないのだとあの夜はっきり悟ったのだと。どんなことがあっても子供達は学校に行かせよう、その夜母ははっきり決めた。

母は昭和六十三年八月末、七十二歳の生涯を孫達に囲まれながら、安らかに目を閉じた。生活苦と闘い、そして克ち抜いた母を誉めて上げたい。

自分はいつもそう思っている。



インターネット 映画紹介ブログより

カンヌ映画祭で、柳楽優弥が最年少で主演男優賞を受賞した注目作。1988年に実際に起きた事件をモチーフに、母親に捨てられた4人の幼い兄妹の姿を描く。四季を通して兄妹たちを静かに見つめていく独自の手法。そのドキュメンタリー・タッチの映像は、瑞々しくも痛切に彼らの心情を浮き彫りにする。



・母親(事件発覚当時40歳)は川崎の私立高校卒業後、服飾専門学校に進学

・歌手を目指したこともあり、実際にレコードも何枚か出している。

・昭和43年頃からデパートの派遣店員として就労。勤め先で男性と同棲を始める。

・この男性との結婚を両親から猛反対される。

2人の間に子どもができたが、その子は養子に出している。

48年、同じ男性との子を足立区で出産するが、母親は「正式の夫との間にできた子どもではなので怖くなり、結局出生届はださずじまいだった」。この子が長男で事件発覚当時の14歳少年。少年は父親については「わからない」と話している。(母親はこれまで父親の違う子どもを5人生んだと話しているが、少なくとも3人の男性との間に、6児を出産。養子に出した子と長男以外は、すべて自宅で自分の力だけで生んだということが判明)

・その後都内のマンションを転々とし、食いつなぐために窃盗や売春をし、警察に捕まったこともあったという。

56年頃に長女(事件発覚当時の7歳)を出産。

599月に次男を生んでいるが、この子は602月に仕事から家に帰ると、ほ乳瓶をくわえたまま死んでいた。処置に困り当時住んでいた家に隠していた。

・母親は長男に「親戚のおじさんに預けた」と説明している。

60年頃に二女(事件発覚当時の3歳)を出産

617月に三女を出産

62年9月頃までは大塚駅周辺に住んでいたが、その後西巣鴨に転居。死んでいた次男はビニール袋に入れてスーツケースに入れたまま荷物として運んだ。

・西巣鴨のマンションは表通りに面した鉄筋四階建て。住んでいたのは2階で、1階には24時間営業のコンビニがあった。

・大家には、「長男と2人暮らし。長男は立教中学に通っている。夫は数年前に死亡した」「私はデパートに勤めている」と話して大家を信用させマンションに入居。大家は他に子どもがいることは知らなかったと話している。

・長男には「事情があって今は学校に行けないが、いつかは行けるように手続きしてやる」と言い聞かせ、市販されている学習ブックを買い与えていた。(発覚時、名前を書かせても、姓は漢字で書けるものの、名前はひらがなでしか書けなかった。

62年秋頃から千葉県浦安市の冷凍食品販売業の愛人(56歳)ができ、愛人のところに入り浸るようになった。長男の話では62年秋頃から、「仕事で大阪に出張する」と言ってマンションを出たままだというが、母親はときどき23万円ずつ送金してきたようで、たまに姿をみせていたこともある。

・その後、63年の正月に一度戻っているが、子どもが邪魔になってマンションに置き去りにし、千葉県内の愛人のマンションに同居していた。長男には千葉県の住所を教えていた。

・長男によると、マンションには時々男性が「元気か」と訪ねてきていたらしいが、愛人か長男の父親かはわからない。

・長男は、いなくなった母親の代わりに食事を作ったり、おむつを取り替えたりしていた。また、毎日のようにコンビニを訪れては菓子パンやおにぎり、アイスクリームなどを買っていた。コンビニの店長は「夜中の23時に来たり、学校のある昼間の時間帯にもしばしば見かけたりするので、変だなあと思っていた」と話していた。

・母親がいなくなって、11月頃に長男は近所の菓子店で中学1年生の2人と知り合う。彼らは頻繁に出入りするようになった。

633月末、長男は滞納していた1月までの3ヶ月分の家賃(27万円)を支払ったが、2月以降は未払いでその後はガスと電気を止められていた。

421日昼頃、遊びに来ていた友達2人のうちの1人が前日に買っておいたカップめんがなくなっているのに気づいた。三女(2)の口元にのりが付いていたため、長男が(あるいは友だちが)三女が食べたと思い殴りはじめた。

・友人2人は、はじめは「長男がやめろと止めた」と供述していたが、その後「初めは、長男も殴った」と話し、長男も「3人でいじめた」と認めた。

・長男は死なせた3女を含め3人の妹の面倒を一人でみていたが、言うことをきかない幼い妹たちに困り果て、そそうをしたりすると体罰を加えていたようだ。

・三女は翌22日午前8時半ごろ死亡。「三女が死亡する致命傷は、長男でなく友人が押し入れから何回も落としたことによる」と長男の弁護士は述べている。

26日、長男は三女の遺体を友人2人とともにビニール袋に包み、さらにボストンバッグに詰めて、3人で電車に乗り、夜11時頃秩父市大宮の公園わきの雑木林に捨てた。友人のうち1人は「夜遅くなるとしかられる」と途中で電車を降りた。

2人は遺体を捨てた後、帰る電車がなかったため、その夜は駅で明かした、という。

・見つかった三女の遺体は、カーディガンとスカート姿だった。

17日、「親は帰ってこないし、不良のたまり場になっている」という大家の連絡で、巣鴨署員がドアを開けると長女と次女がいた。大家がバナナとおにぎりを差し出すと、むさぼるように食べた。

・長男は「夜の商売の人の子どもで預かっている。母は大阪に仕事にでかけている」と説明した。

18日午前10時、同署員と福祉事務所の女子相談員が訪れると、玄関を入ってすぐのダイニングに妹2人が毛布にくるまって寝ていた。長男は奥の6畳に布団を敷いて寝ており、パジャマ姿で出てきた。

・妹たちは衰弱しきった様子で、特に3歳の二女はガリガリにやせていた。

・カーテンは閉め切り、部屋には衣類が散乱。台所には残飯の一部がかびた状態で残っていた。

・部屋には一通りの家具があり、電気炊飯器でご飯が炊かれ、電熱器にはみそ汁をつくったなべがかけられた跡があった。冷蔵庫にはニンジン、タマネギ、キャベツなどが入っていた。洗濯機には洗いかけの衣類が入っていた。

2人の妹は「パンが欲しい」と言い、相談員が買ってきたパンと牛乳をおいしそうに食べ、その後もアイスクリーム、チョコレートなどと食べ物を欲しがった。

・「どうしたの」という問いかけに、7歳の長女は「お兄ちゃんに面倒をみてもらっている」と話すばかりだった。

2人の妹は新宿区の都児童相談センターに預けられた。



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