定年後の読書ノートより
変身、カフカ、高橋義孝訳、新潮文庫
有名な書き出しで始まる。この短編は難解な抽象絵画を見る思い。或る朝目を覚ますと、自分は一匹のゴキブリに変身していた。「しまった、朝寝坊してしまった。列車に間に合わないぞ。」外交販売員の主人公にとって、最初に頭に浮んだのは、自己に起こった人間悲劇の絶望ではなく、これを機会に首になってたまるものかという思いだけだった。「俺達はいつ首にされるか判らない。早くベッドから起き上がり、出勤せねば。」彼の頭には、自己の失敗を繕う焦りだけが次々と浮ぶ。しかしゴキブリに変身した身体はなかなか思うようには動かない。じりじりと時間だけが過ぎていく。やがて店の支配人がやって来た。主人公は全身傷だらけになって、やっとのことで扉を開けた。支配人は彼を見るなり仰天して逃げ出した。両親の驚愕。父はステッキを振りかざし彼を部屋へ押し戻した。それから数ヶ月、妹はせっせとゴキブリに変身した兄に、えさを運んでくれた。家族は奇怪なこの秘密を隠し通し、貧困に耐えた。しかし、或る日空腹に耐え兼ねたゴキブリ男は、下宿人達の前に異様な姿で現れた。もうここまで。家族は彼を捨てた。妹もやっと吹っ切れた。再び輝き始めた娘を見て、両親も前途が拓けてきそうだと思った。というお話。第1次大戦後、ドイツ詩人達は、人生の不安、苦悩を人間の主体的なものを過度に緊張させることによって絶望の世界からの脱出を表現しようとした。カフカはこの短編をひとつの現代詩として書き上げた。

主人公はゴキブリになった自分に対し絶望するより、何故か先ず勤め時間に遅れてはならないと焦りだす現実的処世術の持ち主。処世術に生きる彼にとって、人間もゴキブリも食べて寝る限り於いて、何の違いなどあるものか、そんな意識を持っている彼にとって人間でない悲劇など決定的なことではない。人間である意義、生きる重々しさといった深遠な哲学なんて彼にとっては無縁である。目前に起こった一大事から最初に思い付くのは、首になってなるものかという脅迫観念だけだった。

妹は兄を守ろうと努めた。しかしゴキブリ兄を捨てた時、家族には前途が拓けてきた。絶望から立ち上がるには、思い切った放棄しかない。作者は放棄の持つ意味をもう一度考えなおす。放棄せよ。そうすればきっと前途が拓けてくる、作者はそう思いたかった。

ドイツの現代感覚を持った一人の詩人カフカ、彼には感覚で捉えた世界を、現実感ある世界に描き出す詩人的才能に恵まれた。しかし、抽象絵画を見た時いつも感ずるあの閉塞感、疲労感を、この短編にも感ずるのは自分だけだろうか。

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