定年後の読書ノートより
プログラムとしての老い、日高敏隆著、講談社
遺伝子で人生を見直そうとする挑戦は倫理学者森岡正博氏のETV特集を始め、NHKスペシアル等ですでに何度も伺ってきたが、今回は老いの問題を遺伝子プログラムから論じているのが特徴である。著者の主張は次の如し。

野生動物においては、年をとって少し体力が衰えてきた個体は、繁殖から排除される前に、敵によって、あるいは病気や寄生虫によって殺されてしまう。人間はそういう死から次第に解放されてきた。それは人間が次第に自己を家畜化、すなわち生きていることそのものがすべての目的であるような存在物になってしまったからである。人間の寿命は延びた。しかし同時に、「老い」という問題が生じてきた。

われわれ人間を含めた動物の遺伝子プログラムの最後は死、その個体の死である。信仰や宗教によっていかにそれを否定しようとも、現世的な目で見る限り、死は必ずやってくる。

「人は何故老いるか」、われわれの一生というものは結局遺伝子プログラム化されたものであり、そのプログラムによって人は生まれ、育ち、成人し、子供をつくり、働き、老い、そして死ぬものだ。それは決められた遺伝子プログラムである。年をとって、身体も衰え、体調は思わしくなく、物忘れははげしくなり、ぼけてくれば、野生状態ならとっくに命を落としているだろう。しかし現在では、家族も病院も、親切に世話をしてくれる。歯がだめならばおかゆをつくってくれ、柔らかくして栄養のあるものを食べさしてくれる。今日の倫理では年老いた老人を簡単には死なせてくれない。

死はこのように遺伝子プログラムの一環であるならば、死の悲しみは別として、あまりおおげさに死を受け取るべきでない。老いとは、まさに遺伝子を増やしていく戦略の中に位置づけられているステップだ。とすれば、老いの結末として死がプログラムされているのも、死が遺伝子にとって明らかなメリットになっているからである。

遺伝子にとっては、後世に子孫が残っていくことは好ましい。極言すれば、個体は遺伝子が増えていくための「乗り物」に過ぎない。自分の遺伝子を持った子供、さらに子孫がいっぱしになるような年頃になると、適当なところでプログラムどおりに死んだ方が子孫の負担は軽く、子孫も元気に生きていける。また、子供や孫が元気でいるのを見ながら死を迎えることは本人にとっても得なことなのだ。

人間、長く生きていると、人生とはどんなものか、世の中とはどんなものか、若いときにはわからなかったことが、だんだんと見えてくる。これは老いの良さである。それがわかったころには、いずれ自分が死を迎えることに気づいている。老人たちの死に際して、無理に延命させることは、金銭的な負担で子供が苦しむだけだから、あまり意味が無い。痛みや苦しみを取り除き、暗いことを考えないで、若い頃に見たあの夕日は美しかったとか、良い記憶だけを思い起こすようにそれが一番良いと思っている。

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