定年後の読書ノートより
ぼくはこんな本を読んできた、立花隆、文芸春秋社
この本と同時併行して、三省堂の「本と私―44人の体験的読書論―」を読んだ。44人とは、三省堂編集部が選んだ、現代を代表する作家、学者、評論家、タレント達だが、その中に一人として魅力的な読書生活を送っている人はいなかった。ある評論家は、中学時代岩波新書「私の読書法」を何度も何度も読んだと言っているが、結局彼はその中から何も学んでいないことを暴露している。要するに読み方ではなく、生き方の問題なのだと思う。

こうしたマスコミ知識人と比較して立花隆のこの本は実に迫力がある。この本の中で、氏は何度もあと何年生きられるか判らない、それだけに下らない本は読んでおられないと書いている。まったく同感だ。彼の読書姿勢は実に挑戦的だ。ある著名な学者との対談、貰える謝礼は6万円、事前に氏が予備知識吸収の為に購入した書籍代が5万円。対談では相手がこちらの知識水準を値踏みして話のレベルを決めてくる。だから相手が書いたものは、事前に殆ど読んでおくと、立花氏。このファイトが三省堂44人とは違う。44人達は少年時代の読書歴をちらちらと自慢気に書いているが、しかし中学3年橘隆志少年の作文「僕の読書を顧みる」に匹敵する読書歴を持っている人など一人も居ない。

立花氏曰く、要するに人間の推進力は知的好奇心だ。知的好奇心が高ければ、人は本を読む。世の中一般の人が楽しみにしていることが、氏にはあまり楽しく無いらしい。勉強している時が一番楽しいようだ。遊びたいという欲求より、知りたい、勉強したいという欲求のほうがはるかに強い。しかし、この欲求は、人間誰でもが必ず持っている欲求なのだ。人間は基本的な欲求として、知りたいという欲求を必ず持っている。これはほとんど人間の本能と言っていい。ヒトの社会をここまで発展させてきたのは知的欲求という本能だ。人間は知的欲求を持っていたから「文明社会」を築くことが出来た。

しかし文明社会が高度化すれば、知識総量が増え、知識の分有化が必要となり、人の知識の幅はますます狭くなる。これは一方では人間の無知の度合いを深めていくことにもなる。また、人間は習得した知識は無意識の領域、すなわちオートマトンの世界に振り分けてしまい、過去の記憶の総体は、小脳の器官にしまいこみ、意識の表面から消えていく。すなわち、ヒト個人としては、総て無意識の世界からの指示による行動となり、内面の空洞化が進み、オートマトン的な生活行為のみという生活が確実に進んでいく。

知的欲求の低い人は、自分の現状に満足して学習意欲を失う。新しいことはもう学ぶ必要はない、これで人生十分だということになってしまう。知的欲求の高い人だけが、空洞化する内面を意識し、さらに自分の意識を新しい知的欲求充足に振り向け、充実させ、内面の充実に努める。読書はこうした人達の行為の姿である。こういう人は、永遠に内面的に成長を遂げていくことが出来る。そういう生き方こそ、本当の意味で、人間として良く生きるということでないでしょうか。と立花氏は結んでいる。矢張り読書は生き方の問題だ

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