定年後の読書ノートより
ロシア革命50年、アイザック.ドイッチャー著、山西栄一訳、岩波新書
今から35年前の、1967年1月から3月まで、アイザック。ドイッチャーはケンブリッジ大学で、ロシア革命の歴史講座を行った。この岩波新書は、その全講義記録邦訳である。

ロシア革命がもつ意義とはなにか?この革命は希望を実現したのか?

あらゆる革命の後で、革命の敵達は常にその歴史的正当性を否定する。トウブルも著書「旧体制とフランス革命」でフランス革命後の近代民主主義を否定した。同じ論理で、トウブルの弟子達はロシア革命の必要性ないしは正当性を否定する。

トウブルの弟子達は言う。「ロシア革命が、なにか進歩的業績を収めたとすれば、それは旧体制が企てた工業化を続けただけだ」と。こうしたトウブル弟子達に、ドイッチャーはこう応える。「ロシア革命とは旧体制が進めた工業化によって生まれてきた労働者階級によって、旧体制の内部に圧縮されていた諸力を労働者階級が爆発したものである」と。

マルクス主義者は、ナロードニキ的伝統を否定し、ナロードニキから、農民に対する感受性を受け継ぎ、人民の意志党のテロリスト的伝統を否定し、その集中的な攻撃的精神と、陰謀家的な決意を受け継いだ。

こうした要素がなかったら、ロシアマルクス主義は、西欧社会主義の理論的派生物でしかなかったろう。

レーニンはマルクス理論と自国の伝統の合成体を作り出した。1917年、ロシアはヨーロッパ最後のブルジョア革命と、史上初のプロレタリア革命を生き抜いた。ブルジョア革命によって自分達の農地を獲得した農民は、所有地を保証してくれる社会組織に関心を持った。プロレタリア革命は、都市労働者階級から全面的に支持されたが、農民は不安と疑惑の中にあった。

地主復帰の恐怖がなくなった頃、農民達は自らの個人主義を主張しはじめた。スターリンは、これを暴力的に解決しようと、農業の全面的な集団化にのりだした。スターリンはブルジョア革命を組織化することで、制御しようとした。ロシアでは、胎児がまだ成熟するひまもない内に、強引に出産介入され、死産ではなかったが、無事生育できる肉体でもなかった。ロシア内戦と外国干渉戦争の後、ロシアは廃虚と化した。工業は破壊され、労働者は疲弊しボルシェビキは大切な後ろ盾を失っていた。農民は敵対化しつつあった。

スターリンの独裁的性格や徹底的な無慈悲さと結びついて、彼は権力独占をふるった。1928年ブハーリンは恐怖に脅えながら予言した。「あの男は、僕達皆を虐殺してしまうだろう……」と。

スターリンによる何十年にわたる全体主義的支配は、国民の自己表現、自発的行動、自己組織の能力を奪い去ってしまった。

農村の過剰人口と飢餓は、国家の指導による労働力の移動を容易にした。国家による労働法と強制労働収容所の恐怖は、国民をして国家の厳命に服従させた。スターリンは、一方では労働者階級を高度に階層化した。高度の給与差、待遇差によって、労働者階級の統一は失われた。もし、労働者階級が遠心力によって引き裂かれていなかったなら、あのようなスターリンの策略やテロも、効果をあげることは出来なかったであろう。スターリンは自分の意に添う官僚、党指導者、軍関係者等によって、経済的、政治的、文化的支配を行った。革命は恐ろしい矛盾を覆い隠すのに、はるかに多くの血と偽善を必要とした。

ソ連の工業化と近代化を担当したのは国家であった。ソ連は、最も後進的な国から世界第2位の工業国になった。このテンポとスケールは人類史上その比がない。

「十月革命は、国際帝国主義の最も弱い環を破った」とレーニンは言った。ロシア革命は、世界革命の少なくとも、ヨーロッパ社会主義革命の序曲のはずであった。社会主義は、資本主義が終ったところから、始めなければならないという原則は誰もが信じていた。

スターリンの一国社会主義理論とは、やもう得ずに、やるべきこと殊更に美徳化した。しかし、一国社会主義は革命の普遍主義的概念に対する反動をあらわにした。しかし、スターリンのこの教義の真実性を疑うことは神への冒涜であり、それを侵したということで無数の人々が死をもって罰せられた。

国民はやがて一国社会主義の名において、一切の市民的自由を奪われ、果てしない過重な犠牲と窮乏に耐えるように強いられた。

同じ頃、社会主義台頭に苦しむヨーロッパ資本主義国に、ナチズムとファッシズムが、資本主義の救世主として現れた。

一国社会主義を宣言したスターリンは、西側にむかって、自分は他の国々の社会主義には、重大な関心は持っていないと告げた。スターリンは、コミンテルンを自分の目的に順応させた。コミンテルンを飼い慣らし、外国共産党をソ連の国境警備隊にさせた。もしもスターリン策動の世界的影響がなかったら、資本主義の階級闘争に関するマルクス主義的予言は、今日ほど大きく的をはずれものになっていなかったであろう。

増大するナチ運動に対し、共産党はナチの危険をことさら、意識的、組織的に軽視し、労働者に向かっては、ナチでなく、社会民主党、つまり社会ファッシストこそ、彼等が砲火を集中しなければならない重要な敵であると主張した。

1933年の屈服は、マルクス主義がこうむった最も粉砕的な敗北であった。

1933年ヒットラーの易易たる勝利に対して、スターリンの孤立主義と、ソ連を国外の紛争に巻き込まれないようにしておきたいという安全策から、スターリンはナチズムとの対決を一切排除した。一国社会主義の幻想を追ったスターリンは、他の多くの国々で社会主義の敗北を引き起こし、ソ連を重大な危険にさらした。

だが、戦争のロジックは、スターリンの孤立主義的イデオロギーに反いた。

ナチズムは容赦なくスターリン粛清で混乱するソ連領内に深く侵入し、残虐の限りを尽くした。ナチ占領下のどん底から、ヨーロッパを救いだした勇敢なるソ連赤軍の戦いも、戦後、西側の労働運動に刺激を与えるどころか、社会主義への情熱をためらわせる結果さえ及んだ。冷戦―それは列強によって、戦われる階級闘争の堕落した形態にほかならなかった。

20回大会で、フルシチョフがスターリンの罪悪を暴露したが、これはスターリン糾弾全国討議への序曲にはならなかった。支配グループは討議を開く為ではなく、それを防御する事に熱中した。しかも、反スターリン勢力は絶滅してしまっていたので、スターリン側近達が、非スターリン化を開始することは出来なった。

彼等はスターリン時代を覆うカーテンをほんのすこしの隅っこを上げはしたが、カーテン全部をあげることはしなかった。スターリンの悪夢から解放されたことは国民にとって安堵ではあったが、彼等はスターリン暴虐の全体をちらっとかいま見、一瞥することを許されただけであった。

スターリンの悪夢が国家にどんなに深く食い込んでいたか、国民はその実態を知って衝撃であった。どれほど多くの者が虐殺され、強制的集団化の詳細な事情も、沈黙に押し包まれ、今はだれにも判らない。

過去の革命でこのようなことが起こった場合、結果は復古である。復古にもそれなりの取り柄があった。革命に幻滅した国民に、過去のスターリンの歴史的状況は復古の原動力になるのだろうか。ソ連は復古のモラル的、心理的可能性に満ちている。

西側の何百万の労働者は、何年かの間、これらの経験を考えたすえ。「社会主義はうまくいかないものだ」「革命なんか何もならない」と結論した。多くの良心的労働者は政治的無関心に沈みこんだ。これは西側における社会的現状、すなわち戦後の好況と福祉国家のそれが、多少とも労働者にとって我慢出来るものになって来たからでもある。

最後に本書の著者、アイザック・ドイッチャー氏。1907年ポーランド生まれ。新聞記者。19歳でポーランド共産党に入党。1931年ロシアやウクライナを旅して、スターリンの凄惨な党内闘争を見聞、スターリンの工業化と集団農業化の強制下におかれたソ連の実状をつぶさに目撃し、深い疑問を懐いて帰った。だが、氏の態度を根本的に決定したのは、ドイツの危機だった。当時ドイツはードイツばかりではなく、ヨーロッパ全体がーナチズムの急激な台頭で未曾有のパニックにおちいっていた。そして社会民主主義はファッシズムの一翼であって、これは絶対に相手にせずというスターリンの社会ファッシズム論と、社会民主党もまた労働者の党である、共通の敵ナチ暴徒の襲撃にたいし、社共両党による労働者階級の反ナチ統一戦線を結成することは可能であり、寸秒を争う急務であるとする主張が真っ向からぶつかって、火を噴いた。25歳の氏は、党内反対派をつくって、スターリン的コミンテルンの政策を批判した。そのため33年党から除名された。39年ロンドンにわたり、後イギリス国籍をとり、英国に永住。1967年8月19日ローマにて心臓麻痺で客死。享年60歳。

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