定年後の読書ノートより
吾輩は猫である、 夏目漱石著、 漱石全集、 岩波書店
洋行帰りの東京帝国大学大先生が高座に上って講釈師の扇子を片手に、漫談を始めたから世の中驚いた。ところが、その漫談が実に面白い。腹を抱えて笑いこける。しかし大先生もこの高座が気にいった。最初軽く一席ぶつ積もりが、世の聴衆のわんさわんさの喝采に漫談は次々と続けられた。なんと言っても、べらんめえ調のちゃきちゃき江戸っ子漱石先生、しかも御維新後の明治の東京、世の中見回したら、おかしな話はいくらでもそこいらに転がっている。

江戸っ子はしかめっ面は大嫌い。調子に乗って次々とおつに済ました連中を片っ端からこき下ろす。やりはじめると、ここにも、そこにも面白い話はいくらでも転がっている。しかめっ面などくそ食らえ。漱石先生自分自身までも、茶化したりけなしたり、笑いの種にして漫談は続く。

語り出したのが、天下の大文豪、話題は豊富で、古今東西、知識が一杯詰まった大頭の持ち主。しかも江戸町人の呼吸を大切になさるお方だから話は調子が良い。

この本を読みながら、ふと思い出したのは中学3年我が青春時代、突然名古屋の中学校から東京山の手目黒第十中学校に転校した自分にとって最初に受けた大カルチャーショック。なにしろ彼等はすごかった。難解な大人の単語を並べて、哲学を論じ、文学を論じ、芸術を口にする。聞いていても、田舎者の自分にはさっぱり判らない。しかも東京の中学生は、この難しい単語を如何にももて遊んでいるかのごとく、使い慣れ、軽々と、いや時にはにやにやしながら会話に挟みこみ、楽しんでいる。

漱石先生も丁度あの東京山の手中学生と同じようなもの。漫談の最中に突然古今東西の難解な知的語彙が飛び出してくる。しかし、その難解単語が漫談の中にきちんと納まっているから面白い。余裕派というか、会話遊戯というか、とにかく読みながら、こちらも自然とにやにやしてくるから楽しい。

しかし、これを書きおわった漱石先生、最後になって気がついた。この作品には美学がない。美学には格調が必要だ。おっちょこちょいは軽く扱われる。漱石先生、折角苦労して鬱の気分で書きあげた大作品、次の「坊ちゃん」を最後に、次第に方向切り替えに力が入っていく。「吾輩は猫である」に始った漫談文学、この世界はその後多くの作家が再挑戦するが、2番煎じにはなっても、第2の新境地開拓に成功した作家はまだ居ない。何といっても、博士号など要らないよと軽く断ったという、東京帝国大学の大先生、その知識の深さ、広さにはちょとやそっとで世の作家先生では敵わない。

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