定年後の読書ノートより

1930年代の民族運動、東大教授江口朴郎著、岩波世界歴史講座28
1930年代は、第2次世界大戦の前史をなし、ファシズムに対する統一戦線の対抗関係が現れた時期でもある。

1935年第7回コミンテルン民族戦線政策の採用と中国抗日民族統一戦線の「8.1宣言」がほぼ同時期であることも統一戦線が如何に必要とされていたかを実証している。

しかし、民族解放運動における各国共産党は、コミンテルンの指導という誤った体制によって大きく混乱していた。

中国共産党:1926年北伐民族運動後、都市革命重視で大きな敗北

インドネシア共産党;1926年ジャワ島蜂起失敗により非合法化

エジプト共産党;アルメニア人とアラブ人との民族問題を機に党内分裂。

パレスチナ共産党;エレサレム暴動以降、アラブ人とユダヤ人対立

これらの混乱は、各国現地事情を把握できないコミンテルン本部の、スターリン体制に迎合した指導の過ちである。

パレスチナ共産党の歴史は一層深刻であった。1929年エレサレム暴動ではユダヤ人側にたってユダヤ人迫害政府を攻撃したが、コミンテルンはアラブ人大衆の政党になるため、アラブ化路線に努力せよと命じた。ユダヤ人迫害をコミンテルンは容認、アラブ人の支持を得る為には、ユダヤ人迫害もやもう得ないという指導をした。さらに、将来パレスチナにはユダヤ人を吸収したユダヤ国家建設など有り得ないというスターリンのユダヤ政策が見え、パレスチナ共産党はこのコミンテルン指示に盲従している。

パレスチナ共産党は一貫してユダヤ人移民反対の態度をとり続けた。その反対理由とは当初移民は連合国を助けるから反対、後半では移民は連合国の戦争に不利益だから反対と全くの正反対の論理である。1939年8月の独ソ不可侵協定は、世界中の共産党にとって試練であったが、コミンテルンべったりのパレスチナ共産党は、いち早く「ヒットラーは今や社会主義の祖国ソビエットの同盟国である」として、独ソ不可侵協定に世界で最初に賛成した。

反帝国主義運動の持つ諸矛盾が特に顕在化し、それら諸矛盾を乗りこえて、統一戦線は第2次世界大戦における「民主主義」の勝利を勝ち得た。米・英・ソの協力の過程において、ファシズムに対する「民主主義」の言葉が用いられ、形骸化すつつあった「民主主義」の意味に新しい内容が盛られ、「民主主義」こそ、1930年以降の重要キーワードとなった。

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