定年後の読書ノートより
ヘーゲル「精神現象学」入門、長谷川 宏、講談社
どうしてヘーゲルを読む気になったか。

MLで「経済学批判序説」をテーマにしていた時、友人よりヘーゲルを読むなら「精神現象学を読め」と薦められた。ヘーゲルは難しい。その中でも、「精神現象学」は底なしに難解。とても一人で読んで理解など出来やしない。しかし、この本に何が書いてあるのか、概要だけでも知っておきたいと思って、力んでみた。

「精神現象学」には何が書いてあったか。

内容は、認識の弁証法的把握。否定を活力とする認識は、否定を重ねながら、スパイラル状に上昇していく。スパイラルの横断面を粗描すると次の如くになる。

  • 「精神現象学」は「感覚的確信」から始る。感覚的確信とは存在するものについての直接的な知である。
  • 「今あるこのもの」に執着する「感覚的確信」は没落する。こうして個別にこだわらない「知覚」が登場する。
  • しかし「知覚」はひとつでありつつ多であることを理解できない。ここに「知覚」は没落し、「悟性」が登場する。
  • 「悟性」は無限性なる絶対的概念を対象としてみているだけで、自己自身として把握していない。「悟性」は没落し「自己意識」となる。
  • 己れの実体に見向きもせず、個的な自己に執着する「自己意識」は没落し、「自己」があらゆる実在性であるという確信が生ずる。これが「理性」である。
  • こうして「理性」が自己を世界として自覚するとき、つまり個と実体が相互浸透するとき、「理性」は「精神」となる。
  • 個と実体は相互浸透し、そこに実体は主体となる。「精神」が「絶対知」に高まる。
  • 「絶対値」においては、もはや新しい内容はいささかも加わらない。

スパイラルは次第に、半径を大きくして上昇を続け、やがて絶対知という無限な広がりで終る。弁証法とはこのスパイラルの上昇を見つめる哲学である。

しかし、私にはヘーゲル「精神現象学」で理解できるのは、ほんの断片的な部分だけでした。「精神現象学」のメモです。

「精神現象学」は難解な書である。理由はヘーゲル若書きの書であるから。若さにつきものの、気迫と気負いにあふれた書物。

哲学的思考とは何か。真理を「実体」としてではなく、「主体」としてとらえ、表現すること。真理を「主体」としてとらえ、表現するということは、矛盾のうちにこそ、真理が宿るということ。「精神現象学」全編にわたって、ヘーゲルは、否定や分裂の対立の重要性をくどいほど、強調。否定や分裂の対立を本質的要素とする哲学的真理は、数学的真理や、歴史的真理のはるか上を行くものあり、それをつかむには、数学的思考や歴史的思考より、ずっと複雑で立体的な思考が要求される。

「精神現象学」における否定の運動は最終的に「絶対知」という目的地に到達する。「精神現象学」の難解さは否定に否定を重ねる思考を追いかけるうちに、思いがけぬ迷路に迷いこむ道連れであり、弁証法的思考の荒々しさが生み出した難解さにほかならない。対立や分裂や否定の果てに、理性の秩序が見えてくるはずだという信念を頼りに、対立や分裂や、否定の運動に全身を投げ出され、行くところまで行ってみる。

ヘーゲルの世界像の骨格は、「論理学」「自然の学」「精神の学」に体系化される。 ヘーゲルは意識が自然界とは一線を画すほどの、強い否定力の持ち主だとする。世界全体に行きわたる否定の力を、個々の具体的な場面で発揮するのが、人間の意識である。意識が自己を完全に否定しさって、みずから理性そのものと化すのが、「精神現象学」の最終項「絶対知」の境地である。

意識がこちら側にあって、対象が向こう側にある、そしてその2つが関係する所に対象の意識が生ずる。そのとき、意識に知られている部分が「知」であり、知られていない側面をふくめた全体が「真理」である。

「知」も「真理」も、ともども意識の視野のうちにあるものといわねばならない。意識は存在や事態や真理を否定して、さらなる存在、事態、真理へと向かう。

意識の旅は、あるものをあるがままに受け入れる「感覚的確信」から始る。意識は感覚から知覚へと上昇する

物はさまざまな性質を持つと共に、一つの物としてまとまりを持っている。目の前のさまざまな物の有り様や動きの向こうに一般的な力の働きを想定出来るような科学的思考が、意識を獲得したとき、はじめて目の前の世界は、現象界と呼ばれるにふさわしい構造を手にいれる。

そのような二重構造を対象世界のうちに認めた上で、ヘーゲルは現象界と内面世界を密接な不可分な関係のもとに置き、限りない相互交流を計る。

物理学にとって、法則としての、取り出されてくる内面世界は、現象界のさまざまな事象を、統一的に説明するものでなければならない。

現象界のむこうに、力や力の法則ではなく、現象界とむきあう自己と同質の存在が見出されねばならない。

人間が人間と向かい合い、それぞれが自分を自分として意識し、相手も自分を自分として意識する存在であることを了解しているというのが、自己意識の境地である。

たんなる生命の関係を超えた人と人との関係を、ヘーゲルは「精神」の名で呼ぶ。近代社会とは、人が人として承認を行う社会である。自分をも、他者をも、自由で自立した主体としてとらえるには、「無限の抽象化の運動」が必要である。自然と生命を肯定した上で、自己の自由、自立をどうやって実現するか。

対峙する一方が生命の維持を専らとし、他方が自由、自立を享受するという分業体制であり、いまひとつは自己が自然と実践的にかかわる労働行為である。労働とは、欲望を抑制するもの、物の消滅まで突き進まず、物の形成へと向かうものである。物を否定しつつ形をととのえる行為は、同時に意識の個性と純粋な自主、自立性の発現の場でもあって、意識は労働するなかで、自分の外にある持続の場へと出て行くのだ。他律的としか見えない労働のなかでこそ、意識は自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ

不幸な意識で分裂の極致を経験した自己意識は、一転理性という統一の境地へと踊りでる。

ヘーゲルのいう観念論、それは主としてカントとフィフティの哲学で、物の世界に理性が行き渡っていることを認識する立場である。

理性とは、物の世界のすべてに行き渡っている意識の確信である。後年の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という命題に呼応するものである。

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