定年後の読書ノートより

渡辺先生作品抄、渡辺一夫著、ちくま日本文学全集58
  • 我々人間が自分で作ったものの奴隷になり、人間を見失い。人間を忘れかけている時、弱くて滑稽で危険な動物であることを思い出してくれるのが、ラブレーの笑いです。我々を精神的に健康な人間にするために、我々を歪んだ存在にせぬようにするために、ラブレーの笑いがあるのです。(ラブレー管見)
  • 異なった人間観や世界観が、生きた人間に宿る時、思想交流交替は戦乱、殺人、拷問、暗殺の形でしか現れざるを得なかった。このみじめな人間的条件の浄化解決をエラスムスはいずれにも属さず、その態度は曖昧であり、私は1人でいたいと自らも言い、他人からもエラスムスは加わらずに1人でいると半ば揶揄的な評を与えられた。(エラスムスについて)
  • ある党派的な立場に引き込まれそうになると、彼は必ず逃げてしまう。ユマニスト・エラスムスは、自分の思想の勝利よりも、自己の静穏を好んだにすぎない。(エラスムスについて)
  • それにつけても、エラスムスの指摘とあざ笑いは、実に人間的であり健康であり、ありがたいものだと思っています。(エラスムスについて)
  • 人間悪・社会悪の是正は、これを一挙に行おうとしますと、必ず新しい人間悪・社会悪がからみつくようです。こうした急激な是正行為に生じやすい流血と憎悪とは、既に存在した人間悪・社会悪から生まれる流血と憎悪に劣らない傷痕を、人間社会に残すことがあります。人間悪・社会悪は打ち捨てられて良いはずはありませんが、こうした悲惨や憎悪を生じせしめたものに対して、1人でも多くの人間が反省を懐き、疑問を感ずるように、繰り返し語り続け通すことによって行われるよりほかないでしょう。(ある教組の話)
  • 泥沼のような現実世界を一挙に天国にしようと志す人々は、純粋で、一本気で、熱情にあふれた人でしょう。しかしそうような人はねばねばした泥土に足をとられ、もがくうちに、救うべき人間を見失ってしまうこともありうるのです。(ある教組の話)
  • 人間にとって未来のことは全くわかりませんし、見えるものは、過去の人間の行動の実態だけです。我々は我々の過去を眺めて、繰り返してはならぬ愚行の所在を悟るほうが得でしょう。(ある教組の話)
  • いかに善意を持っても、人間は、その善意を他人に認めさせようとあせったり、強行する場合は。非人間的な行為に出てしまうことがあります。(ある教組の話)
  • ユマニスムは思想ではないようです。人間が人間の作った一切のもののために、歪められていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。したがって、あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていてあげなければならぬはずです。なぜならば、あらゆる人間世界のものと同じく、人間のためにあるべき思想が、思想のためにある人間という奇形児を産むことがあるからです。ユマニスムは思想や制度に付き添う注意深い母親です。ユマニスムは、人間をゆがめる一切のものを尋ね続け批判し通す人間の貴重な心根でしょう。(ある教組の話)
  • 歴史は、ただユマニスム的批判のみによってはいっこうに進行せず、むしろ狂信に近い信念と暴力を伴う行動とによってのみ局面が打開されることも確かでしょう。ユマニスムによる地味な前進は、それが人間全体の深い変革を求めているだけに、実に苦しい仕事になります。しかし、この苦しい仕事に従事する人間がいなくなった時、人間社会は、狂人に運転されたブルドーザーにより破壊の限りを尽くし、そして自らも破壊することになるに違いありません。(ある教組の話)
  • <目的のために手段を選ばず>とでも呼ぶべきものは、生きた人間と、その心とを無視することがあります。そしてこうした生きた人間とその心とを守る人間が別にいない限り、出来上がった組織は、機械のように動く危険があります。(ある教組の話)
  • 我々人間は、深く反省すればするほど、また教養が増せば増すほど、自分の行為や行動の動機を反省できるようになり、いかに堅い言葉を述べても、心中に責任を回避しようとする不逞なものがうずくまっていることを悟ることがあるものです。それほど人間というものは複雑であり、一つのことを信じた場合でも、信じていると持っている自分を見詰めて赤い舌を出しているもうひとつの自分を感じれるものです。(ある教組の話)
  • エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に打倒しようとしたのです。前者は終始一貫、批判し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘し、敵を倒そうとしたのです。(ある神学者の話)
  • ユマニストは、批判するだけで、現実を変える力を持ち合わせないし、ユマニスムは所詮無力なものだと言われています。しかし終始一貫批判し通すことは、決してなま易しいことではありません。現実変革に闘争的暴力を導入して人々を苦しめるよりも、はるかにむつかしいことだと思います。ユマニスムは一見無力に見えましょうが、決して無力ではありません。ユマニスムを圧殺せずに、守り通す努力をした方が、殺し合って、力の強い者だけが生き残るより、はるかにむつかしいにしても、はるかに得だということだけは確かです。(ある神学者の話)
  • ラブレーくらい、歪められた人間と、人間を歪めるもの、人為的に作られたものを描き、人間の是正と制度の訂正の必要を我々に感じさせた作家も少ないだろうと思います。(ある神学者の話)
  • <食うか食われるか>が、人間世界の実相だと言われています。しかし、こうした実相を浄化し、これから脱出しようというのが、人間の文化の歩みであって欲しいとおもいます。そこにあぐらをかいてしまうことは、人間であることを放棄する結果になりはしないでしょうか。「人生は、つまるところ、金力、権力、色欲さ」とつぶやく人がたくさんいますが、それは要するに、恥かしい人間考察に過ぎず、何等これを打開する道を指示することにはならぬと考える人々は、決して多くはないでしょう。(ある神学者の話)
  • 過去の歴史を見ても、我々は周囲に展開される現実をながめても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった例をしばしば見出すことが出来る。不寛容に報いるに不寛容をもってした結果、双方の人間が逆上し、狂乱し、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったりする。結論は簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して、不寛容たるべきではない。(寛容は自らを守る為に不寛容に対して不寛容になるべきか)
  • 秩序は守らねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えていかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまで人間的でなければならないし、秩序の必要を納得させるものでなければならない。(寛容は自らを守る為に不寛容に対して不寛容になるべきか)
  • 寛容が不寛容に対する時、常に無力であり、敗れさるものであるが、それはあたかもジャングルの中で、人間が猛獣に食われると同じかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対し人間は説得の道が皆無であるのに対し、不寛容の人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。寛容の武器はただ説得と自己反省しかないのである。(寛容は自らを守る為に不寛容に対して不寛容になるべきか)
  • 鶴見俊輔の巻末解説から

渡辺一夫はわりきることがない。不決断を保ちながら、辛抱強く、問題ととりくみ続ける。臆病に徹する覚悟でうらづけられたこの優柔不断な一貫性こそ、渡辺一夫を戦中・戦後の同時代の中で、きわだたせる。

不寛容に対する寛容は、不寛容の全体の姿をしっかりととらえつづけることを許しはするが、同時に限りない後退を余儀なくされ、不寛容に対する部分的同調にみちびかれてゆく危険をともなう。それは同時代の日本の軍国主義の下に、フランス文学の研究者の歩みつづけた、ひとつの道であり、その研究は時代ばなれしているような装いを保ちながら、妥協のない同時代批判であった。

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