定年後の読書ノートより
日本ファシズムと日中戦争、藤原彰著、岩波世界歴史講座28
満州武力占領した石原等は対ソ戦略体制を意識していたが、人民武装闘争などまったく考慮に入れていなかった。関東軍は1934年共匪掃討作戦に力を入れたが、予期に反して抗日人民軍根絶困難と結論。陸軍中央は関東軍に手を引かせ、「支那駐屯軍」増強で、対応しようと考えた。

1936年2・26事件処理過程を通じ、陸軍の政治的発言権拡大。広田内閣北進・南進併行戦略と共に、軍備拡大。

1937年7月7日「支那駐屯軍」の北京郊外芦溝橋での軍事演習中事件勃発。拡大派は中国に一撃、華北分離を主張、不拡大派は中国深入りよりも対ソ戦重視、しかし決して不拡大派=戦争反対ではない。近衛等は中国への一撃による威嚇が念頭にあった。その背後には抗日民族統一戦線の成長に対する潜在的な危惧心があった。

当時毛沢東は持久戦論で、(1)戦略的防御、(2)対峙、(3)反抗の3段階に状況判断、第1段階は武漢陥落まで。日本軍は中国の泥沼に陥った軍隊を引き出すことができなくなり、100万の軍隊は遊撃戦で消耗することとなる。

1940年、中国戦場における日本の軍事作戦の限界が明らかになり、日中戦争の勝利の見通しはあらゆる意味で立てられなくなった。日本は次第に兵力を撤収し、軍事的勝利放棄の方向で動いた。

1940年世界情勢は反ファシズムの軍事的優勢が表面に現れた。人民解放軍は日本軍に対する抗戦の主役に成長、抗日民族統一戦線の中心的位置を占めるようになった。

戦争の拡大、総力戦体制は日本にとってその矛盾をいよいよ拡大した。国民の戦争への協力と統合を図ったファシズムの支配は大きな矛盾をはらんだ。天皇制官僚機構を強化、肥大し、強力な統制と支配を行う日本ファシズム支配は、擬似的にせよ、国民の自発性を引き出すのには成功しなかった。

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