定年後の読書ノートより

非ユダヤ的ユダヤ人、アイザック・ドイッチャー著、岩波新書
この岩波新書をいつ、どこで買ったのか覚えはないが、本箱に入っていたので、目下一連の読書テーマを総括していく意味で読んでみた。こういう本をいつか読むだろうと買っておくのは我ながら良いクセだと今回再認識した。以下ドイッチャー本文からの引用転記。
  • ナチズムは共産主義に対する旧体制の自己防衛以外の何ものでもなかった。ナチス自身、その役割はそこにあると信じていた。ドイツ社会全体もそれを信じていた。そして欧州のユダヤ人は、資本主義の存続と資本主義の社会主義革命に対する防衛のために犠牲に供されたのである。
  • 私の考えでは、ナチスの時代の悲劇的な事件はユダヤ人問題についての古典マルクス主義の修正を必要としない。もちろん古典マルクス主義には、ナチスのユダヤ人殺害や、ソ連のスターリン時代のことなど書いてない。古典マルクス主義は現代文明のもっとも健全で正常な発展だけを考えていた。すなわち適当な時期における資本主義から社会主義への移行を素直に夢見ていた。まさか資本主義がこれほど根強く生き残り、現代文明全体を後退させてしまうとは夢にも思わなかったのだ。
  • マルクス、エンゲルス、ローザ・ルクセンブルク、トロッキー等は繰り返して「人類は今や国際的社会主義か野蛮主義かの二者択一に直面している」と何度も発言している。彼等はひとたび人類が社会主義を受け入れそこなうと、人類がどんなに野蛮な深みに落ち込むかその時、正確には予見することが出来なかったかも知れないが、恐らく彼等自身も、この言葉がいかに正しく、その二者択一がいかに現実的な意味を持っているか想像することも出来なかったかも知れない。しかしその後の社会に生きる我々は、この言葉の深い意味を目下深刻に味わい、ため息をつく次第である。
  • 一つの方法論、唯物史観としてのマルクス主義はあの残虐行為を予告しており、トロッキーの場合ははっきりとした形をとって警告している。けれどもナチスの理論と実践の病理学的特徴ともいえる完全な恐怖と頽廃は、正常でまともな人間の想像を超える形をとったのである。
  • 私は民族国家が崩壊しつつある今日、世界がユダヤ人を一つの民族国家に追い込んだこと自体を、新しいユダヤ人の悲劇と考える。何世紀もの間、西欧諸国の進歩と発展は、民族国家の形成と成長に結びつけられてきた。ユダヤ人はこうした運動とは何の関連も持たず、何の利益も受けず、その宗教的な信仰の中に閉じ込められてきた。一方西欧では宗教中心の思想は民族国家への忠誠に置き換えられ、人々は自分の心の置き場を教会ではなく、国家の中に見出した。さらに今や人々は新しい心の置き場を超国家的な社会の中に見出しうるようになってきたこの次元に及んで、ユダヤ人はいまその国民と国家をイスラエル国家に見出したのである。何という悲しい時代錯誤であろう。

この本を、今回の「夜と霧」に始る現代史最大のナチス問題の最後のまとめとして、こうして原文引用で終えること、矢張り読むべき本はいつか読むのだから、是非買っておくべきだと再確認する次第である

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