定年後の読書ノートより
草枕、夏目漱石著、漱石全集、岩波書店
芸術的新境地を求め、夏目漱石は俳句的新小説「草枕」は明治39年発表した。漱石は社会や人生などと真正面から取り組む今流行の自然主義文学なるものが、どうしても好きになれない。都会人であり、知識人であり、少なくとも旧武士階級出身の食うに困らない階級出身である自分自身が、田舎出身青二才の如く、青筋をたててりきみ、絶望的な顔をして哀しみ、深刻に大声を立ててわめき散らす、今流行の自然主義文学なる輩の真似などは絶対にしたくもない。そう考える夏目漱石は、余裕有る吾が境地を芸術的新境地として、世に問うてみた。これが新小説「草枕」である。だからこの新小説、ちょっと従来の小説とは同じではない。漱石先生、この小説はこんな考えで作りましたと、先ず最初に書いている。

「この世を少しでも住み良くしようとすれば、詩や絵が必要となってくる。芸術は人の世をのどかにしてくれ、人の心を豊かにしてくれる。人の世は利害に絡んでややこしい。しかし一方、自然は単純だ。だから我々は自然に接すると心まで安らかになる。人の世だって、自然の風景を見るごとく、ひとつの絵として見ることが出来る。それには東洋独特の超然たる心境が必要だ。人事葛藤の詮議だてなどをせず、非人情に徹すれば、人間世界は芸術として、1枚の絵を見るが如く、心穏やかに、ながめることができるのだ。」

こうつぶやいた1人の絵描き、山里深く旅をして、宿屋で1人の出戻り娘とお近づきとなる。彼女をハムレットのオッフェリア嬢ならぬ、池に浮ぶ美女になぞらえ、彼女の顔に「憐れ」を求め、彼女をじっと見つめていく。彼女が見せた「憐れ」の顔とは、別れた主人との、プラットホームでの1瞬のすれ違い。「それだ、それだ、絵になります」と叫ぶ絵描き、という単純なお話。

確かに芸術の香りが漂う、能舞台を見るような1景。これが、夏目漱石が求めた、余裕ある非人情の世界なのかもしれない。しかしやがてこの新境地も近代知識人安住の境地ではなかったと、芥川竜之介の自殺によって証明されていく

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